更生プログラムに再犯防止の効果が期待できないとなると、刑罰の存在意義が疑われることになる。その結果、「犯罪が行われないように罰する」という未来指向の見方(功利主義的刑罰観)から、「当然の報い」(Just Deserts)として「犯罪が行われたから罰する」という過去指向の見方(応報主義的刑罰観)へと、刑罰の位置づけが変わった。
一方、有害性を指摘する批判は「犯罪原因論は人権侵害につながる」というものだ。例えば、心理学的原因が取り除かれるまで収容できる少年法の不定期刑の下では、軽犯罪しか行っていない者でも、当局の判断次第で少年院や刑務所に長期間入れておくことができる。再犯防止の役割を刑罰に期待する功利主義的刑罰観に立てば、当然そういうことは起こり得る。その結果、罪刑均衡と量刑の公平性を求める応報主義的刑罰観の方に支持が集まるようになった。
1975年のアカデミー賞主要5部門を独占した『カッコーの巣の上で』も、犯罪原因論の有害性を告発した映画だ。そこで取り上げられたロボトミー(脳の前頭葉を切除する)手術は、今でこそ廃人同然にする「悪魔の手術」として禁止されているが、かつては「奇跡の治療」として大流行し、その考案者であるリスボン大学のエガス・モニスはノーベル賞まで受賞している。
こうして、犯罪者が抱える原因に注目する犯罪原因論は求心力を失うとともに、それまでの決定論的な色彩を薄め、確率論的なリスク論へと変容していった。それは、「原因としての決定因子から傾向としての危険因子へ」という視座の移動である。ここで言う危険因子(リスクファクター)とは、それが多ければ多いほど犯罪へと走らせる可能性を高めるもの。「高血圧や高コレステロールは生活習慣病の危険因子」などという言い方と同じ使い方だ。