元少年Aのホームページには、難解な絵が多数掲載されている。この絵を見たとき、FBI(米司法省連邦捜査局)を訪問したときのことを思い出した。FBIの行動科学課は、プロファイリングを開発したことで有名だが、その一角に、連続殺人犯が描いた絵や彼らが書いた手紙を集めた「邪悪心研究博物館」がある。そこで見せてもらった絵も、不気味なものばかりだった。元少年Aの絵とは明らかに違うと言えればいいのだが、そう言い切る自信はない。
このように、人々の不安をかき立てることが続くと、必ず少年法がクローズアップされる。厳罰で臨むべきだとか、適用年齢を引き下げるべきだといった議論だ。しかし、こうした改正は少年犯罪の抑止力にはならない。なぜなら、犯罪をする瞬間は「絶対に捕まらない」と思っているからだ。逆に言えば、「捕まるかもしれない」「捕まったらどうしよう」と思う人は、犯罪はしないのである。
少年法の根拠とその揺らぎ
そもそも、少年法のルーツはアメリカの「犯罪原因論」にさかのぼる。犯罪原因論は、生物学的原因、心理学的原因、あるいは社会学的原因を取り除くことによって、犯罪を防止できると考える立場だ。しかし20世紀後半、犯罪原因論に有効性と有害性の両面から厳しい批判が向けられた。
有効性を否定する論調に大きな影響を与えたのが、ニューヨーク市立大学のロバート・マーティンソンが1974年に、「これまでに報告されている更生の取り組みは、再犯に対して目に見える効果を上げていない」と発表した論文だ。
この「何をやっても駄目」(Nothing works)と考える立場は、要するに、犯罪の原因を特定することは困難であり、仮に特定できたとしてもその原因を取り除くことは一層困難である、ということを根拠としている。