ふるさとを語ろう 九州・山口財界人国記

フューチャーアーキテクト社長・東裕二さん

「絵を描くのが得意でした」と語る東氏
「絵を描くのが得意でした」と語る東氏

 ■母に教わった顧客目線

 高校を卒業するまで福岡県直方市で暮らしていました。父方の先祖は昔の秋月藩(現朝倉市)出身で、祖父が石炭の卸売りの商売を始めるために直方に移り住んだそうです。父も後を継ぎました。

 母は嘉麻市の稲築町にある庄屋の出です。成績は優秀で「医者になれ」と言われていたそうですが、血を見るのが苦手で断念。横浜市の学校で勉強し栄養士になりました。全国で10番目ぐらいに免許を取得したらしいですよ。

 母を一言で表現すると女傑です。

 栄養士は保健所の顧問などに就いて収入を得るケースが一般的でしたが、自ら総菜店の経営を始めたのです。昭和30年代当時、スーパーストアが進出し始めた頃で、その一角を借りる形で、複数の店を出していました。そんなビジネスモデルは存在しなかったので、主婦に大人気でした。

 総菜の中心は揚げ物です。私も小学生の頃から手伝いました。(ゆで卵を挽肉で包んで揚げる)スコッチエッグ用に100個単位の卵をゆでたり、コロッケ用のジャガイモをむいたりしていました。大学生になっても帰省時は同じようなことをやっていましたよ。

 私はおとなしい子供でした。得意だったのは絵を描くこと。よく表彰されました。小学5年生からは絵画教室に通い中学にかけて油絵を学び、「専門学校に行かないか」といった誘いがあるほどの腕前でした。ピアノも中学まで習い、かなりのレベルまで上達しました。

 高校は地元の進学校、鞍手高に進学します。旧制中学だったので校風はバンカラ系。白いカバンを肩に掛けて、下駄で歩くのがステータスで、いかに薄くなるまではき続けるかに腐心していました。「鞍高生、下駄取りゃ何残る」というのが、学園祭のテーマになったこともあります。その時の絵は私の作品。模造紙に描き、ベニヤ板に貼り付けて校内に飾りました。

 5歳離れた兄がいますが、東京の大学に進学し千葉県庁に就職します。このため「まず福岡に帰ってくることはないだろうから、私が親の面倒を見る必要がある」と覚悟を決め、「福岡からあまり離れていない土地がいい」という理由から、広島大学に進みました。

 母の仕事の影響で、アカデミックなものよりも実務の方が性に合っていたのでしょう。大学時代はアルバイトに積極的でした。

 ところが兄はなぜか、千葉県庁から福岡県庁に移籍します。

 「それなら東京の会社に就職してチャレンジしよう」。こう考え、大学時代に出合ったコンピューターの世界を歩むことを決めました。以降、IT(情報技術)の変化の節目ごとに声がかかり、約30年間にわたって3つの外資系IT会社に勤務します。

 その過程で「IT分野は外資が強い。日系企業に勤めて恩返ししたい」といった思いを抱くようになりました。ITによるコンサルティングサービスを提供する、フューチャーアーキテクトに入社しました。

 当社の創業者である金丸恭文(現会長)は鹿児島県出身で、その地で会社を設立しました。百貨店や銀行をはじめ、九州内に多くの顧客を抱えています。

 母は総菜店を営んでいたとき、商店街ですれ違う人によく頭を下げていました。「あの人は誰?」と尋ねたら「知らない」という答えが大半でした(笑い)。きっと、顧客と同じ目線できちんと対応することにこだわっていたから、そんな行動を取っていたのでしょう。私は現在でも最前線に立つことがありますが、コンサルティングというのは、顧客の悩みにきちんと向き合って課題を抽出し、解決策をきちんと提示する仕事です。その前提となるのは顧客と同じ高さの目線。仕事に対する基礎は、直方での経験によって培われたと思っています。 (伊藤俊祐)

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