九州の礎を築いた群像

西日本シティ銀行編(4)出発点

【九州の礎を築いた群像】西日本シティ銀行編(4)出発点
【九州の礎を築いた群像】西日本シティ銀行編(4)出発点
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 ■「銀行と同じ土俵で戦わせてくれ」 無尽から相互、そして普銀へ

 「合併はしてもいい。ただし、新会社の株式の半分を、私にお渡しいただけることが条件です」

 昭和19年。福岡無尽の社長、四島(ししま)一二三(ひふみ)(明治14~昭和51年)は、合併を打診してきた野村銀行(大阪)の会長、野村元五郎(明治20~昭和29年)に、こう主張した。

 無尽は日本に昔からある互助システムの一種だ。一定の金を皆から集め、まとまった金額を必要とする人に貸す。地域・大衆の金融として、江戸時代には「無尽講」「頼母子(たのもし)講」の名で全国に広がった。明治以降、企業が無尽講を運営するようになっており、福岡無尽もその一つだった。

 戦況は厳しさを増していた。

 国は金融機関に対し、軍需産業への融資拡大と、戦費調達に必要な国債の大量引受を迫った。そのためには、銀行の規模を大きくし、体力を付けさせなければならない。

 大蔵省は昭和17年4月に公布された金融事業整備令の下、「一県一行」を掲げ、金融機関の統合を強行した。無尽も例外ではなかった。

 13年末に245社あった無尽は、17年末には139社まで減少した。

 福岡県でも西日本(にしにほん)、南筑、共立、九州、三池、福岡の6つの無尽を、野村銀行主導で統合する構想が持ち上がった。

 だが、一二三は納得しなかった。

 「経営も順調で戦時国債も十分買っている。なぜ合併しないといけないんだ」

 現在の久留米市生まれの一二三は、実業家を目指し、若くして単身渡米した。排日機運が高まる米国で、農場勤務などで財をなし、帰国後、福岡無尽の経営に関わった。

 負けん気が強く、相手が大銀行や国であろうと、納得できなければ譲らない。

 野村は説得をあきらめざるを得なかった。

 最終的に、一二三の福岡無尽を除いた5無尽が合併し、19年12月、西日本(にしにっぽん)無尽株式会社が誕生した。

 この時、重ならなかった福岡無尽と西日本無尽の道は、60年後に一本の道となった。

               × × ×

 終戦後、ボロボロになった金融システムを立て直そうと、大蔵省は無尽にも預金や貸付の取り扱いを許可した。いわば、無尽の銀行化だった。

 26年、無尽の「相互銀行」転換を可能とする相互銀行法が施行された。

 一二三の福岡無尽も同年10月末、福岡相互銀行と商号を変更し、相銀転換を果たした。

 福岡相互では、一二三の次男、四島司(大正14~平成27年)が頭角を現した。

 父の精神を引き継ぎ、「興産一万人」という言葉を銀行経営の軸に据えた。

 「産業を興し、地域を担う人物を1万人育てよう」

 その言葉を実現すべく、四島は常務だった38年、地元の若手経営者を集めた勉強会「八日会」を設立した。銀行との取引状況にかかわらず、「これぞ」と思う人物に声を掛けた。

 毎月8日に昼食を共にし、議論を交わす会には、ロイヤルホストの江頭匡一、三井ハイテックの三井孝昭らが集った。ベスト電器創業者の北田光男も、司の兄貴分として会に参加した。いずれも、後に九州や日本を代表する経営者となった。

 四島は銀行業務の近代化にも手を付けた。オンラインシステムの構築だ。

 当時の銀行は、本店と支店の間で、貸出や預金の動向を記した元帳と呼ばれる紙の束をやり取りしていた。これを専用線によるシステムで実行しようというものだった。

 「近い将来、銀行は必ずコンピューターで競争するようになる」

 九州の地銀ではどこも手を付けていない難事業だったが、四島は断行した。

 四島は44年に社長に就任した。その2年後、システムは稼働した。都銀の富士銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)と、ほぼ同時期だった。

 福岡県内の金融勢力は福岡銀行、西日本相互銀行、福岡相互銀行の順だった。

 だが、「こうだ」と思えば、万難を排して実行を目指す四島の豪腕ぶりは、福岡相互の存在感を高めた。

 「県内3番手の自分らが、1番手、2番手と変わらない仕事をしていれば、とても生き残れない。3番手には3番手なりの戦い方がある」

 こう考える四島は、若手登用も積極的だった。いったん、仕事を任せると決めれば、決裁印を預けてしまうことすらあった。

 中脩治郎(なかよしじろう)(81)=後の福岡シティ銀行副頭取、現・西部日本エンタープライズ相談役=も、四島に抜擢(ばってき)された。

 「中、大分を何とかしてこい」

 43年4月、中は四島から大分支店長を命じられた。33歳だった。

 当時、大分駅前の商店街で、アーケード建設構想が持ち上がっていた。だが、建設費用の融資について、競合銀行は、なかなか審査の結論を出さなかった。

 しびれを切らした商店主は、融資決定を待たずに、古いアーケードの取り壊し工事を始めた。

 商店街に隣接した福岡相互の支店から、中が工事の様子をうかがっていると、親しくしていた商店街組合の幹部が駆け込んできた。

 「アーケードの件、融資の決定が、まだ出なくて困っているんですよ。助けて頂けないでしょうか?」

 中は、飛ぶように福岡に戻り、四島と会った。

 「大分の商店街融資、取れます! いますぐ融資の決裁をお願いします」

 本来、融資話は支店長から融資担当の部長に上げるのが正規ルートだ。中はそれを飛び越えた。四島はその行為をとがめもせず、笑顔で判を押した。

 福岡相互の企業風土、融資姿勢はまさに「行け行けドンドン」だった。

                × × ×

 一方、西日本相互銀行にとって、晴れて銀行となったことへの思いは大きかった。

 「われわれは無尽ではない。近代的銀行になるんだ」

 こんな思いを込め、銀行の略称を「相互」を外した「西銀」とした。

 西銀の目標は、福岡県内での首位奪取だった。

 特に昭和30年代後半以降、筑豊炭鉱の衰退によって、県内のガリバー銀行、福岡銀行が苦しい環境に陥ったこともあり、西日本相互は攻勢に転じた。

 陣頭指揮を取ったのは西日本相互2代目社長の森俊雄(明治35~昭和48年)だった。森は41年、こうぶち上げた。

 「43年3月末までに、資金量3千億円を目指す」

 当時の日本の国家予算(一般会計)が3・7兆円規模だった。

 西日本相互の資金量は約1700億円。2年で倍増に近い、無謀とも言える目標だったが、資金量約2千億円だった福岡銀行への挑戦状だった。

 両行は「3千億円戦争」と称された激しい競争を繰り広げた。

 「何が何でも3千億に届かせろ。俺たちがトップになるんだ!」

 43年3月末、西日本相互の資金量は3034億円と目標をクリアした。だが福銀は3159億円。追い抜くことはできなかった。

 その後、無謀な挑戦の後遺症が出る。西日本相互はライバルを意識し、短期的な数字を追うことばかりに躍起となった。その結果、中長期的な融資話を無視するような状況が発生していた。

 森の体は病魔に蝕(むしば)まれていた。それでも業績を立て直そうと、力を振り絞って支店訪問を続けた。

 48年7月、森はがんのため亡くなった。

                 × × ×

 「高千穂相互を助けてもらえないだろうか?」

 50年春、大蔵省から西日本相互銀行に、打診があった。

 宮崎市地盤の高千穂相互は経営難に陥っていた。「単独では生き残れない」。金融当局は、こう判断し、相互銀行協会(相銀協)で九州地区会長行を務める西日本相互に任せようとした。

 西日本相互はこの打診を受け入れた。西日本相互側にも思惑はあった。

 西日本相互は「西銀」の略称が示すように、「銀行」になりたかった。

 相互銀行は、融資先が中小企業に絞られるなど業務上の制約に加え、銀行より「格下」というイメージが強い。

 西日本相互は、業界で資金量ナンバーワンであり、地方銀行の雄である福岡銀行と、互角にやり合えるところまで成長した。それだけに、格下の座に甘んじることはできなかった。

 だが、地方銀行協会(地銀協)は「銀行法上の免許を持っていない相互銀行が『銀行』を名乗ることは、法律上問題があり、国民に混乱をもたらす」と、相銀の普銀転換に反対していた。相銀側にも、全国で不正融資などの不祥事が頻発するといった泣きどころもあった。

 西日本相互は53年ごろから、大蔵省側と普銀転換の本格的な折衝を始めた。

 「どうしても転換を実現させていただきたい。われわれは、高千穂の救済で汗をかいている」

 難航を極めた交渉だが、57年11月、ようやく吉報が届いた。

 「高千穂相互銀行との合併により、条件を満たせば普通銀行転換を考えている」

 前月に社長に就任したばかりの市川慶三(大正7~平成15年)に、大蔵省から知らせが舞い込んだ。

 高千穂相互の救済話を受け入れてから約8年間、交渉を続けていた市川らの苦労が報われた瞬間だった。高千穂相互側との調整を済ませ、58年4月に普銀転換を発表し、59年4月、「西日本銀行」が誕生した。

 とはいえ、障害はまだ残っていた。普銀となった以上、西日本銀行は相銀協には残れず、地銀協に加盟するしかなかった。これに地銀協側が難色を示した。

 同年10月になってようやく加盟が認められたものの、加盟行幹部の意見交換会への参加が認められないなど、さまざまな不利な条件を受け入れた上でのものだった。

 普銀転換を目指したのは、福岡相互を率いる四島司も同じだった。

 「どうしても『相互』の二文字を外していただきたい。銀行と同じ土俵で戦わせてください」

 61年6月、銀行局長に着任した平沢貞昭(83)=現・横浜銀行特別顧問=にあいさつに向かった四島はこう訴えた。

 その甲斐あってか、62年12月、金融制度調査会が相銀の普銀転換を推進する方針を了承した。

 相互と普通の間にあったガラスの天井をぶち破り、西日本銀行と福岡シティ銀行が誕生した。両行は平成16年、西日本シティ銀行となる。(敬称略)

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