【福嶋敏雄の…そして、京都】(56)柳田国男 即位式に興奮…サンカの民「実在」を信じた(1/2ページ) - 産経ニュース

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福嶋敏雄の…そして、京都

(56)柳田国男 即位式に興奮…サンカの民「実在」を信じた

 京都の街は御所を中心に栄えた。「右京」や「左京」といった区名、「下ル」や「上ル」といった地名表記も、すべて御所を中心にしている。現在も市民や観光客の憩いの場として、御所にかこまれた御苑はにぎわっている。

 この御所で大正4(1915)年11月、大正天皇の即位式や大嘗祭(だいじょうさい)が営まれたことは「森鴎外」の項でとりあげた。式典には、もうひとりの文人も参列した。

 貴族院書記官長で民俗学者、柳田国男、40歳である。すでに『石神問答』や『遠野物語』を上梓し、民俗学研究の機関誌「郷土研究」の刊行をはじめていた。式典について、柳田は「大礼の後」という短いエッセーを書いている。

 「一言にして言へば此時、我々の祖先は目覚めた。日本が永く日本でなければならぬ実状が発露した。しかも同時に時代の改まったことが今更ながらしみじみと感ぜられたのである」

 宮中最大の儀式に参列できたことで、柳田はさすがに興奮していた。当時の新聞談話では、「一家の名誉」とまで語っている。

 だがこの京都滞在が「柳田民俗学」にとって意味を持つのは、柳田がサンカを実見したと、思いこんだことである。10年後に書かれた『山の人生』には、こんな一節がある。

 「京都の御大典のとき(略)、なお遠く若王子(にゃくおうじ)の山の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼等はわざとそうするのではなかった」

 若王子山は御所から見て東南方向の、なだらかな山である。ふもとには南禅寺の伽藍(がらん)が建っている。

 柳田は、その山の中腹でサンカが火を燃やしていた、もちろん大典を祝して燃やしているのではなく、食事の仕度などをしているのだろう--とみなしたのである。

 「山窩」「散家」「山嫁」などとも書かれるサンカは、山から山を漂泊し、戸籍にも編入されていない化外の民にことである。箕(み)や箒(ほうき)、籠作りなどを生業として、ときたま山から人里におり、米などと交換したといわれる。

 作家の三角寛がセンセーショナルに取りあげてから知られるようになったが、現在の民俗学では、一時的に山にこもった民はいたが、サンカそのものは「非実在」が主流となっている。