静岡 人語り

清水芸妓置屋共同組合代表の小鈴さん(67)(上)

 ■小5で芸妓を志し花柳界へ 置屋に下宿、稽古に明け暮れ

 生まれは東京、育ちは清水です。小さい頃から芸妓(げいぎ)になるために育てられました。

 きっかけは叔母が清水で芸者をやっていたことです。叔母は結婚してから東京に戻り、日本舞踊の師匠をやっていました。ある日、私が踊りたそうな顔して稽古を見ていたら、叔母に「踊りたいのか、清水に行くかね?」と聞かれたので、私は思わず「行きたい」とお願いしました。母親はかなり反対しましたが、「おばちゃんみたいになりたい」という気持ちが強かったのでしょう。小学5年のときに清水の花柳界に飛び込みました。

 当時の清水は、とてもにぎやかでしたよ。商店街は活気があって、巴川沿いには置屋(おきや)が15軒くらい並び、芸妓衆も大勢いました。芸妓さんは、午前中に稽古をして夕方頃からお座敷に出るのですが、街を歩いているとあちこちから三味線の音や歌声が聞こえてきました。

 私は、当時清水で一番厳しいと評判の女将(おかみ)がいた「秀大和(ひでやまと)」という置屋に入りました。置屋は芸妓が所属するタレント事務所のような所です。ここに、芸妓衆5、6人と一緒に下宿することになりました。昼は学校に行って、夜は稽古という毎日です。置屋の掃除や、お姉さんたちの着物をたたんだりするのも私の仕事でした。私のような仕込み期間中の人間には給料が出ないので、学費や食費は置屋が全部立て替えて私を育ててくれるのです。その代わり私が働けるようになったら返すことになっていました。

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 親元を離れての生活でしたが、お姉さんたちといつも一緒でしたし、毎日忙しくて寂しがっている暇はありませんでした。性格もあっけらかんとして、わりと物おじしないタイプだったので、花柳界の雰囲気にすぐ溶け込めたのを覚えています。

 稽古は、置屋の近くにある検番(けんばん)と呼ばれる場所でやります。検番は、芸妓を座敷へ斡旋(あっせん)する事務所のような場所で、芸妓の稽古場でもあります。そこに毎日、踊りの師匠、鳴り物の師匠、長唄の師匠が来て、私たちに芸事を教えてくれるのです。秀大和は長唄と常磐津を得意分野としていましたが、最初は、芸事を一通り覚えさせられます。言葉遣いや礼儀作法もここでたたき込まれました。

 私が一番苦労したのが長唄でした。学校から戻って稽古の時間になると、いつもおなかが痛くなりました。三味線は音感が悪いから音が外れちゃうし、歌も下手くそだから、もっと上だとか下とか言われて嫌で嫌でしょうがなかった。私があまりにもできないから、師匠が腹を立てて帰っちゃったこともありましたよ。そのときは、置屋のお母さんと一緒に師匠の所に行って「頑張りますから、よろしくお願いします」って泣きながら謝りました。懐かしい思い出です。

 小、中学時代は稽古に明け暮れていたので、早く座敷に出たいと思っていました。そうしたら、中学を卒業する少し前に、お母さんが「そろそろいいんじゃないか」と認めてくれたのです。これで晴れて芸妓になれると思ってうれしかったですね。そして昭和39年の春、お披露目の日を迎えました。(構成 広池慶一)

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【プロフィル】小鈴

 こすず 本名・布施早苗。昭和23年、東京生まれ。小学5年のときに芸妓を志し、清水の芸妓置屋「秀大和」に入った。江尻小学校(現静岡市立清水江尻小学校)、清水市立第一中学校(現静岡市立清水第一中学校)を卒業し、39年に芸妓デビュー。28歳のときに2代目秀大和として置屋を受け継いだ。平成20年に清水芸妓置屋共同組合の代表に就任。現役の芸妓として稽古に励む傍ら、芸妓の街・清水の再興に向けて後進の育成に努めている。

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