満州文化物語(18)

極寒の重労働への怒り、80人超の同期生を失う悲しみ染み込む「セメント袋歌集」 シベリア抑留者の慟哭…

【満州文化物語(18)】極寒の重労働への怒り、80人超の同期生を失う悲しみ染み込む「セメント袋歌集」 シベリア抑留者の慟哭…
【満州文化物語(18)】極寒の重労働への怒り、80人超の同期生を失う悲しみ染み込む「セメント袋歌集」 シベリア抑留者の慟哭…
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 粗末なセメント袋をほどいて作った歌集が残っている。載っているのは『スターリン賛歌(さんか)』や『民族独立行動隊の歌』などの革命歌、労働歌。シベリア抑留者が使ったものだ。

 歌集をひそかに持ち帰ったのは満州国陸軍軍官(士官)学校7期生、小池禮三(れいぞう、88)。「共産主義に染まったアクチブ(収容者の活動家)から『赤旗の歌が歌えないと日本に帰さない』と脅されて、懸命に覚えたものでした」

 小池は一度、酷(ひど)いやり口で絶望を味わっている。ブカチャーチャという炭鉱の収容所(ラーゲリ)で約3年間、強制労働に就かされた後、「日本への帰国」を告げられ、船が出るナホトカまで来たというのに「船が来ない」という理由で別の収容所へUターン。落胆はあまりに大きかった。

 小池はそこで、日本語がペラペラのロシア人政治部将校が主宰する「反ファシスト委員会」の学習会に参加することを命じられる。マルクス・レーニン主義を3カ月間叩(たた)き込まれた。

 小池は、洗脳されたふりをして、さらに1年間必死で耐え抜く。セメント袋の歌集には酷寒の地で重労働を強いられた怒りと、10代の少年にすぎなかった80人以上の同期生を抑留中に喪(うしな)った悲しみがたっぷりと染みこんでいた。

特攻を前に遺書を書く

 昭和20年8月9日未明、ソ連軍(当時)が150万の大軍で満州へなだれ込んできたとき、小池ら7期生の日本人生徒約370人は首都・新京(現中国・長春)にある軍官学校で泥のように眠り込んでいた。

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