小池は、10月2日にブカチャーチャの収容所に着く。約2500人いた日本人収容者の中で、17、18歳の軍官学校生徒は最も若い。人間扱いなんてされなかった。「珍しくスープに魚が入っていると喜んだらあまりに渋くてのどを通らない。袋を見たら昭和2年製。つまり、『肥料』になっていた魚を食べさせられたのですよ」
最初の冬にシラミを媒介にした発疹チフスが大流行する。40度以上の高熱、脳症…大人になりきっていない若い体から、あっけなく命を奪ってゆく。遺体から衣服をはぎ取り、土と雪を被(かぶ)せるだけ。朝起きるとまたひとり、ふたりと硬くなっている…。
小池の引き揚げは24年9月。引き揚げ後も苦労は続いた。アカに染まったのではないか、と疑いの目で見られ、刑事が思想のチェックにやってきた。外地からの引き揚げ者を対象にした大学編入の特例措置はすでに締め切り。20歳過ぎが「新制高校2年生からやり直せ」といわれれば、進学を諦めるほかはない。
ようやく地元の金融機関に職を見つけたときの採用条件は「絶対に赤旗を振らないこと」。シベリア抑留経験をやっと打ち明けられたのは平成の時代になってからという。
せめて母を、故郷を想いながら死んでいった友の最期の様子を家族に伝えたい、とも思うが、どうしてもできなかった。
「申し訳ないと思う。だけどやっぱり後ろめたい気持ちが消えないんですよ。私は生きて日本に帰ることができたのですから…」=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)