離脱か、残留か
20年9月初め、新京郊外・南嶺の旧軍兵舎でソ連軍の監視下に置かれた軍官学校の日系生徒約370人は「究極の選択」を迫られていた。シベリアへの移送は始まっていないが、前提となる作業隊の編成をソ連側から急(せ)き立てられている。動くなら今しかない。
「満州に係累のある者は離脱を認める」
学校幹部からお触れが出された。新京に知人がいた7期生の西川順芳(のぶよし、87)は渡満前に大叔父の内田信也(のぶや=東條内閣の農商務相)から聞いた「シベリア抑留」の話が頭をよぎり、離脱を決意する。「冬用の背広に着替え、一般人のふりをしてソ連兵の監視をすり抜けた。トランクには軍服が入っていて、中国人警官に見咎(みとがめられたときは冷汗が流れた」
離脱組は約60人。新京の知人宅に潜んでいた西川が翌21年4月、中国の国共内戦に巻き込まれるのは、以前書いた通りである。
小池は残った。「そのときはまさかシベリア行きとは思いもしない。貨車に乗った後もソ連兵は『東京ダモイ(帰還)』を繰り返していたから先に内地へ帰るのは(離脱組ではなく)私たちの方だと…」
酷寒の地で小池らを待っていたのは想像を絶する「地獄」だった。
肥料まで食べさせられ
7期生の抑留者は2つの収容所に分けられる。約230人がチタ州のブカチャーチャへ、約80人はイルクーツクだった。80人以上の死者の大多数はブカチャーチャに集中している。ほとんどが病死だった。