静岡 古城をゆく

安倍城(静岡市葵区内牧・慈悲尾) 後醍醐天皇の皇子ら訪問の地

 南北朝時代、駿河国の駿府には北朝の今川氏が守護職として入り、駿河南朝方との間で13年以上の長きにわたって抗争を続けた。この間、後醍醐天皇の皇子・宗長親王らが南朝の頭目格である狩野介(かのうのすけ)貞長に会うべく立ち寄った先が安倍城である。

 戦前の沼舘愛三氏の「安倍城の研究」(『静岡県郷土研究』第一輯)はその場所を安倍川西岸の慈悲尾・羽鳥背後と位置付けた。隣接する久住砦(とりで)と周辺の内牧城、鳥羽砦、千台砦、小瀬戸城、水見色砦を合わせて広大な城砦群を形成していたとするもので、楠正成の赤坂・千早城がイメージの基になっていると思われる。

 これに対し、狩野氏の本地知行が「安倍山(あべのやま)」であることなどから類推して、安倍城はより北側の安倍川上流域にあったとする説を提起したのが静岡古城研究会である。沼舘氏が「安倍本城」とした場所について江戸時代後期の地誌である『駿河記』や『駿河志料』は今川氏重臣・福島(くしま)氏の古城址としているだけで、狩野氏への言及が全くないこともこの説を後押ししている。

 沼舘氏のいう「安倍本城」は安倍川西岸の標高435メートル地点にあり、静岡市街を展望できる絶景地だ。南西側には砦が併設され、その構造は確かに狩野氏らと同時代の南北朝期の城郭に見られる「二城一連式山城」をなしている。

 縄張りも曲輪(くるわ)を階段状に配した古式なものだが、一方で北側に2条の堀切を用いて曲輪を構築する形式は後の室町期の構造である。客観的に見て同城に今川氏の手が入っていることは間違いないが、狩野氏の城を後に今川氏が改造したものなのか、初めから今川氏が築いた城だったのかはこのことだけでは確定できない。(静岡古城研究会会長 水野茂)