【福嶋敏雄の…そして、京都】(54)森鴎外 最高位「軍医総監」として「小説」そのものを捨てた高瀬川(1/3ページ) - 産経ニュース

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福嶋敏雄の…そして、京都

(54)森鴎外 最高位「軍医総監」として「小説」そのものを捨てた高瀬川

 高瀬川に架かる三条小橋を上がったあたりは幕末維新期、尊皇攘夷の志士たちの寓居(アジト)が多く、血なまぐさい争闘(ゲバルト)がたびたび起きた。川に沿った木屋町通りから御池通りをこえたところに、尊攘派の牙城である長州藩邸があったからだ。新選組などに追われた志士たちは、治外法権の藩邸に逃げこんだ。

 長州藩邸跡は、現在の京都ホテルオークラである。かつてホテルの裏手には古ぼけたアパートなどが建ちならび、ちょっと陰気で湿った感じのする一画であった。いまはしゃれた料理店やレストランなどが並んでいる。

 このあたりで高瀬川は西に折れ、「一之船入」と呼ばれる船着き場に入る。船着き場の手前には、「伏見の清酒」の一斗樽を積んだ高瀬舟のレプリカがあった。水深が浅いため、係留というよりも、ドスンと置かれている感じだ。

 森鴎外の短編「高瀬舟」にちなんだものだろうが、かつてはこんなレプリカはなかった。観光客がここまで足を延ばすこともなかったからだ。

 今ふうにいえば、安楽死、あるいは嘱託殺人をテーマにしたこの短編のストーリーは紹介するまでもない。ひさしぶりに読みかえし、気になったことがあった。船着き場から高瀬舟で運ばれる罪人と護送の同心のやりとりが描かれているのだが、高瀬川周辺の眺めや景物の描写がほとんどないのだ。わずかに、

 「その日は暮方から風が歇(や)んで、空一面を蔽(おお)った薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏の温かさが、両岸の土からも、川床の土からも、靄(もや)になって立ち昇るかと思われる夜であった」

 というくだりがあるが、鴎外にしては、頭の中だけでひねった、いかにも凡庸な描写である。理由はなんとなくわかる。

 鴎外は「高瀬舟」を、わずか1日で書いた。大正4(1915)年12月5日の日記には「晴。家にあり。高瀬舟を草し畢(おわ)る」と書いているからだ。