【鹿間孝一のなにわ逍遙】人生を頂点から始めた不幸…清原が輝いていた「あの日」(1/3ページ) - 産経ニュース

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鹿間孝一のなにわ逍遙

人生を頂点から始めた不幸…清原が輝いていた「あの日」

 昭和60(1985)年だった。夏の高校野球大阪大会の決勝戦は、今はもう撤去されてしまった森ノ宮日生球場で行われた。

 清原和博、桑田真澄のKKコンビのPL学園と…対戦相手がどこだったか思い出せない。ただ、清原が放ったホームランは鮮烈に記憶に残っている。

 日生球場は狭い。両翼が90・4メートルで、左・右中間の最もふくらんだところでも107メートルしかない。ために場外にボールが出ないように外野席の後方には高いフェンスが設けられていた。

 清原の打球は快音を残して、その左中間に向かって舞い上がった。打った瞬間にホームランとわかった。スタンド後方のフェンスも越えて場外へ、と見えたのだが、さてどうだったか。

     ◇

 野球評論家の豊田泰光さんに「野球人生を頂点から始めてしまった不幸」という一文がある。

 豊田さんは高校出新人の本塁打記録27本を持っていた。

 鳴り物入りで西武ライオンズに入団した清原は、豊田さんを上回るペースでホームランを量産した。

 豊田さんは清原とカケをした。

 「オレの時は120試合制だった。120試合目までにオレの記録を抜いたらおごってやる」

 「ホンマですか。絶対抜いてみせます」

 清原は115試合で27本に追いついた。

 豊田さんはこう書く。

 「ルーキーイヤー、清原は最終的に31ホーマーまで数字を伸ばした。考えてみると、彼の不幸はあまりに早熟なところにあった。プロ生活をいきなりその野球人生の頂点から始めてしまった男の不幸だったのかもしれない」

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 記録より記憶に残る。その代表は長嶋茂雄さんだが、清原もそうだ。

 一番印象深いのは昭和62(1987)年の日本シリーズ。相手は清原が入団を熱望しながら、ドラフト会議で大学進学が確実とされた桑田投手を1位指名した因縁の巨人である。