【福嶋敏雄の…そして、京都】(53)千利休 呼び捨ててた秀吉から「不遜な木像」、自ら腸を掻き出し自刃 清明神社(1/3ページ) - 産経ニュース

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福嶋敏雄の…そして、京都

(53)千利休 呼び捨ててた秀吉から「不遜な木像」、自ら腸を掻き出し自刃 清明神社

 京都の町を南北につらぬく堀川は中世、交通の動脈であった。現在の鴨川よりも水量が多く、水運の便もよかった。川に沿った堀川通りも都のメーンストリートであった。

 豊臣秀吉の時代、堀川通りの西側一帯にあった大内裏跡の広大な敷地に城が築かれた。聚楽第(じゅらくだい)である。「聚」は「集」とおなじで、楽しみを集めた城といったほどの意味になる。

 いかにも秀吉好みの、栄耀をきわめた建造物であったはずである。わずか10年ほどで、秀吉自身が破却してしまったため、建物の規模や内容は不明である。

 聚楽第の西側の出入り口は一条通りにあたり、堀川には一条戻り橋がかかっていた。その橋上で、渡辺綱が美女に化けた鬼の腕を切り落としたという伝承がのこされている。

 秀吉の時代には、橋の周辺には魚屋や八百屋、南蛮雑貨屋、食べ物屋などの店がびっしりとならんでいた。ちょっとした市場で、京の町でももっともにぎわった。

 天正19(1591)年2月25日、雑草におおわれた戻り橋下の河原に、奇妙なモノが磔(たっけい、はりつけ)にされていた。人間ではない。木像である。

 大徳寺山門の「金毛閣」の上層に安置されていた千利休像であった。山門復旧のさい、上層部は利休の寄進で造られたため、寺側が感謝のために制作し、安置したとされる。

 だが秀吉は激怒した。秀吉自身もふくめ、高貴な人が通りぬける山門の上に、みずからの木像を置くなど、「不遜僭上(ふそんせんじょう)の所行」だというわけだ。利休は茶器や茶道具の売買や斡旋(あっせん)で富をきずいたともウワサされ、それも秀吉を怒らせた一因だとされる。

 繁華な場所だっただけに、橋の上にはたちまち人だかりができた。「木像がハリツケにされている!」と、竹矢来の中に板に打ちつけられた利休像に目をまるくした。ナマの人間なら、こんなには驚きはしなかった。

 利休像の磔刑(たっけい)は、利休にたいする秀吉の最後通告であった。大政所(秀吉の実母)や北政所(妻、ねね)らが助命嘆願したが、肝心の利休が謝罪しようとしなかった。