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私の連載では昨年、幕末期に発刊された英字新聞の翻訳とその筆記者を通じて日本の新聞の曙(あけぼの)を紹介した。市川清流が翻訳された記事を筆記し、新聞と関わる契機になった可能性のあることにも触れた。
世が御一新となった当初、新政府は文明開化と民衆の皆学・向上などを目的に新聞を保護育成した。横浜で最初の日刊紙「横浜毎日新聞」が明治3(1871)年12月に創刊されたのを皮切りに、東京日日新聞(同5年2月創刊)▽郵便報知新聞(同年6月創刊)▽朝野新聞(7年9月「公文通誌」を改題し発行)▽読売新聞(同年11月創刊)など、日本人による日本語の日刊紙が続々と産声を上げた。
一方、未整備だった販売網を補完しようと公的な「新聞縦覧所」を設置し、1カ所でまとめて複数の新聞を無料で読めるようにした。東京や横浜、京都など全国の主要都市に置かれて庶民に重宝されたという。
明治初期の社会や文化に詳しい国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)教授の樋口雄彦さん(54)は「江戸後期から風聞書などの形で世界の政治や経済、社会などの情報は日本に入っていた。そうした情報を渇望する機運が幕末以降、送り手の新聞側にも、受け手の民衆側にも高まっていた」と話す。