たとえば放射線に関して十分な安全性を要求するのはもっともだが、何をもって十分とするのか、工学的要素やリスクをどう評価するのか、その基準は曖昧である。京大は核燃料物質関連の施設改造で補正申請を4回、繰り返させられた。宇根崎氏が「生みの苦しみ」と表現した同プロセスは、最終審査までに1年半かかったが、生みの苦しみの主因は規制委の基準が定まっていなかったことにある。
審査に臨むに当たって、規制委は本来、最初に明確な基準を示すべきだ。だが、現実はそうではない。これまでの取材で審査のたびに規制委が新しい要求を出す事例は幾つも見てきた。規制委は実習しながら規制について学んでいるのかと問いたくなる。彼らが原子力研究を左右し、放射線医療の進展までも止めている現状は、日本のみならず人類にとっての不幸である。
癌治療だけではない。研究も教育も停滞中だ。大学の研究用原子炉の運転停止で学生たちが学べなくなり、近畿大学は窮余の策として彼らを韓国水原に送り、慶煕大学の試験研究炉で学ばせている。かつて日本は慶煕大学をはじめソウル国立大学など韓国6大学の精鋭学生約20人を毎年京大原子炉実験所に迎え、教えていた。現在の逆転を、宇根崎氏ならずとも「情けない」と思うのは当然であろう。
あらゆる研究分野で先駆者としての地位を守り続けることが国益であり、日本人の幸せである。政府は規制委の的外れな規制を正し、彼らが正しく機能するように、専門家会議を設置し、医療や研究が完全ストップのわなから解き放たれるように、国会の監視機能を強めなければならない。