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連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が始まった昭和20年9月。全国の都市部は焼け野原が広がり、バラック建ての闇市が点在した。東京では、新宿、新橋、上野、池袋などに闇市ができた。
江戸東京博物館館長の竹内誠(82)は毎日のように上野の闇市を通って旧制上野中学に通った。
饅頭、クジラベーコン、ピーナツ、タワシ、茶碗-。食料や生活用品が所狭しと並び、「これを足して、さらにおまけで」と威勢のよい声が響いた。飲み屋のバラック街もあり、夜になると「カストリ」と呼ばれる密造焼酎を求め、男たちが集まった。21年に入ると瓦礫は次第に撤去され、並木路子の「リンゴの唄」があちこちで流れるようになった。
上野駅前には小箱を脇に抱えた子供たちが進駐軍相手の靴磨きをしていた。上野山の坂道には米兵相手の娼婦「パンパンガール」が並び、理由は分からないが、頻繁に髪の毛をつかみ合ってけんかしていた。
竹内と母親が上野公園で弁当を開いたら、後ろから子供の手がニュッと伸びて握り飯をつかんだ。戦災孤児だった。仕方なしに「どうぞ」と渡すとニヤッと笑って走り去った。竹内は懐かしそうにこう振り返る。
「戦争で敗れてどん底だったが、みんなは意外と明るく活気があった。今日より明日、明日より明後日と世の中がよくなっていくイメージをみんな持っていたんだな…」