戦後70年〜東京裁判とGHQ(1)

火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも「自ら計らわず」

 23年11月12日の死刑宣告から2週間余り経った11月29日、広田の家族は最後の別れを告げに巣鴨プリズンを訪ねた。

 10歳だった孫の弘太郎(77)は面会室の一角でガラス越しに祖父と向き合った。物心ついて祖父に会うのは初めて。面会前に父、弘雄に「お前がおじいさんに会えるのは今日が最後だ。なるべく覚えておくように」と言われたので必死に目を凝らしていると、広田は優しくほほ笑みながらこう言った。

 「ちゃんと勉強して、しっかり暮らしなさい」

 緊張のあまり顔はうろ覚えだが、広田の落ち着き払った物腰は覚えている。他の家族にも、判決への不満や、遺言めいた言葉は一切なく「これからの世の中は外国語の勉強はしておいた方がいいな」などと何気ない団欒を続けた。

 広田は一体何の罪に問われたのか。

 主席検事、ジョセフ・キーナン率いる検事団は、侵略戦争を計画・実行した「平和に対する罪」▽捕虜殺害・虐待など「通常の戦争犯罪」▽一般住民への非人道的行為など「人道に対する罪」-の3つの罪状で28人を起訴した。対象は3(1928)年1月1日から20(1945)年9月2日まで。適用された訴因全55項目のうち広田の訴因は48項目に及んだ。

 検事団は、首相の田中義一が3年に昭和天皇に上奏したとされる「田中上奏文」を、ナチス・ドイツを率いたヒトラーが著した「わが闘争」と同様の文書と位置づけ、歴代内閣と軍部が17年8カ月にわたり侵略戦争を計画・遂行した-という筋書きを描いた。

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