満州文化物語(13)

居留民の引き揚げ時期に「大きな差」ができたのは…

平穏だった北京の生活

一方、下道部隊に命を助けられた居留民はどんな道をたどったのか。

水野喜久夫(79)は当時、興●(=隆の生の上に一)の国民学校(小学校)の3年生。父親は興●(=隆の生の上に一)の税関長で、脱出行では、母親と幼い妹も一緒だった。「(脱出行では)河を渡るのに兵隊さんに肩車してもらったり、最初は遠足気分でしたね。ところが突然、銃声が聞こえて、最後尾の兵隊さんが銃で撃たれたのを覚えています」

無事、北京へ着いた居留民は20年9月12日に北京の日本人女学校に収容される。水野一家はその後、日系企業の社宅に移った。食事は十分ではないが、配給があり、父親は店番の仕事を見つける。学齢期の児童のためには「青空教室」も開かれたという。

「(北京の)日本人の生活は平穏でしたね。父の仕事で得たお金で、お正月を迎えたときにピーナツを買って食べたことを覚えています。危険な目に遭ったことは一度もなかった」

水野一家を含めて興隆から脱出した約270人の居留民は昭和21年2月下旬、長崎・佐世保へ引き揚げた。この間、伝染病で約10人の幼児らが命を失う悲劇があり、不自由な生活や略奪の被害などが、なかったわけではない。

だが、軍人、警察官、官吏などが悉(ことごと)くシベリアへ抑留され、ソ連軍による民間人への暴虐な行為が続出した満州と比べれば、はるかに状況は良かった。

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