渡部裕明の奇人礼讃

古田織部(上)戦国の世を生き抜いた「へうげもの」

古田織部像(名古屋城蔵)
古田織部像(名古屋城蔵)

 イギリスなら紅茶、イタリアやアメリカでは珈琲…。どこの国でも愛される飲み物があるが、日本の「茶」はそれを儀礼やコミュニケーションの手段にまで高めた。武士が命をやりとりした戦国時代に生み出された「発明」といっていい。そして千利休が大成した茶の湯に、より自由な発想を加えたのが、古田織部(1544~1615年)である。名もない武士から出発した織部が、どのようにして「天才」とたたえられるようになったのか。その生涯を追ってみよう。

美濃の名もない武士

 織部こと古田重然(しげなり)は天文13(1544)年、美濃国(岐阜県)に生まれた。父親は重定といい、守護の土岐家に仕える武士だったようで、美濃が織田信長の領国になると信長に従っている。

 永禄11(1568)年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、父とともに従った。そして翌年、摂津茨木城主・中川清秀の妹、せんと結婚している。以後、2歳上の義兄のもとで、信長の天下取りの手兵として戦いの日々を送った。

 信長の一代記である「信長公記」では、織部は「古田佐介(さすけ)」の名で3回、登場している。天正6(1578)年、羽柴秀吉の播磨攻略に従軍していたこと、摂津伊丹城主・荒木村重の謀反に際して、村重に従っていた清秀を説得し、信長陣営に引き戻したことなどが知られる。

 戦国時代、織部のような武士はあちこちにいた。槍(やり)一本で武功を立て、のしあがろうと懸命に働いたのである。のちの大茶人の面影は、まだない。

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