40歳のとき、ジャズミュージシャンの菊地成孔(なるよし)は父を亡くした。それから11年半、ふたりの音楽界の先輩を見送った今夏までのあいだに彼が記した追悼文が収められたこの本は、菊地成孔の40代を辿(たど)る私小説のようにも読める。
冒頭にある父の死後、再び身近な人を弔うために葬儀に参列するまでには4年が経(た)っている。この本のしめくくりでは、これまで火葬場で骨を拾ったのはふたりのみだとある。そう、直に人の死に接せずとも、たとえ顔を合わせた場面は数えるほどでも、あるいは面識はなくても、ただその作品に親しんでいた人が世を去ったとき、誰にも頼まれなくとも彼は追悼文を書いてきた。例えば、忌野清志郎、マイケル・ジャクソン、大瀧詠一のために。多くはウェブサイト上で発表されたものである。訃報にふれたとき、言葉を失う、という表現が幾度か登場する。されど、口を開けなくとも、目の前にあるキーを叩(たた)きさえすればなんらかの言葉を画面上に紡ぎ出すことは可能なのだ。その書きかたは今を生きていることのひとつの証拠でもある。
誰かが亡くなった瞬間、自身が食べていたメニューが書き出されていることも少なくない。死者の代わりに飲み食いするということはそれ自体が追悼になり得るのだから。
文中に多くあらわれる言葉のひとつに「愛」がある。2011年3月14日に書かれた、東日本大震災で亡くなった人々への追悼文にはこうある。
〈愛を灯(とも)しましょう。それはちょうど、心身の真ん中にです。そして愛というのは、何やらステキで温かい事ではない。自分の命への妄執をチャラにするという事です〉