70年代に性急に軍を掌握しようと振宇と対立し、失敗した苦い経験のある正日は、日成に対する忠誠の権化に子供だましの寝技が通じないことも十分理解していた。時期が来るのをひたすら待った。
「何があろうと、生き返らせろ」
87年春に転機は訪れる。呉振宇が金正日主催の秘密パーティーから車で帰宅する途中、街灯に激突して大けがを負ったのだ。
午前3時まで酒を飲み、泥酔したまま、ベンツを運転。頭蓋骨や肋骨(ろっこつ)を損傷し、危険な状態で病院に運ばれた。駆け付けるなり、正日は「何があろうと、呉振宇同志を生き返らせろ」と言い放ったとされる。
「国中の名医を総動員せよ。外国から有名な医師を呼んでもいい。カネは必要なだけ使え」
振宇は、専用機でモスクワに移され、一命を取り留める。正日の計らいで、外国を転々としながら最高レベルの治療を受け、88年1月には奇跡的に復帰を果たした。
この事故を機に振宇は、金日成に対するのと変わらない忠誠を正日にも誓うようになる。振宇からの忠誠は軍からの忠誠を保証されたに等しかった。
それでも軍権まで手にしたわけではなかった。最高司令官の地位に父が居座っていたからだ。