現実主義が「現状肯定主義に陥りかねない」との指摘は、左だけでなく右からもあった。作家の三島由紀夫は劇作家の福田恆存との対談で、現実主義を認めながらもその危険性を突いている(『福田恆存対談・座談集』第2巻)。
東京と京都の気鋭の国際政治学者によって、日本の安全保障のあるべき姿をめぐる論争が繰り返された。やがて安全保障論争は思わぬ展開を見せる。丸山眞男門下である東京工業大学の永井陽之助が、ハーバード大学留学中に起きた1962年のキューバ危機に触発され、日本を微温的な「愚者の楽園」と中立論者を揺さぶった。
永井は『中央公論』1965年6月号に「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」を書き、防衛努力は平和への最低限の義務であるとして、「力の裏付け」を強調したのである(永井『平和の代償』所収)。永井が坂本と同じ進歩的文化人のドン、丸山眞男の系譜に連なるだけに、現実主義者としての参戦は左右から驚きをもって迎えられた。
もっとも永井は、ずっと下って1980年代になると、宰相・吉田茂の軽武装・経済優先を擁護して「吉田ドクトリンは永遠なり」と、なぜか昇華してしまう。戦後日本が歩んだ道を「顕教」として賛美し、逆に、防衛力の強化に懐疑的になっていく(永井『現代と戦略』)。