彼は戦後の日本は、自立できない島国であり、外交防衛とも米国に依存しながら、経済発展のみに精力を傾注してきた代償であるとみた。
実際に、世界の目が1964年10月の東京五輪に注がれていたさなかに、ソ連ではフルシチョフ首相が解任され、中華人民共和国は初の核実験を強行した。日本が戦後復興を遂げて、世界の主要国に追い付こうとする頃の衝撃波で、事実が高坂の指摘を裏書きしていた。
高坂の師にあたる河合栄治郎門下の猪木正道も、『中央公論』1964年10月号の座談会で、坂本義和らの中立論について「パワーポリティクスがないということは致命的なことだと思う」と語り、その甘さを指摘した。
「平和の代償」ショック
坂本はついに筆を起こし、高坂、猪木らの現実主義が「政治的には保守の機能をになっている」と批判した。彼のいう保守とは日米関係を承認するという意味であり、戦後日米関係の既成事実の中に合理性を追認しようとしていると位置づけた。
従って現実主義は、「60年安保」闘争で広がった「大衆運動の政治的意義を極小化しようとする」として、現状肯定主義であると決めつけた。