書評倶楽部

『時を刻む湖 7万枚の地層に挑んだ科学者たち』中川毅著 書評サイト「HONZ」代表・成毛眞

奇跡的な万年時計の研究

 福井県の若狭湾近くに水月湖という湖がある。周囲長は10キロほど。深さ38メートルの汽水湖だ。ほとんどの人が知らないが、この湖こそ、奇跡の湖なのである。ここのおかげで考古学者や地質学者たちは数万年前に起こった天変地異や人類の進化などについて、より正確な時間を知ることができるようになった。その精度は5万年前で誤差170年だ。

 たとえば世界のどこかで、津波の痕跡の中から植物片が見つかれば、その津波が何年に発生したかがたちどころに分かる。世界中の研究者たちに、まさに万年時計が与えられたようなものなのだ。

 水月湖には毎年1ミリの堆積物が間断なく湖底に降り積もり、その縞を数えることで正確に年代を特定できる。他の湖の場合は川の流れや、魚などの影響で、水底がかき乱され、きれいな縞にならない。それらの影響がなかったとしても、7万年で70メートルの厚さになるから、湖が埋まってしまう。ところが水月湖は、近くの活断層のおかげで、絶妙な速度で沈下し続けるという、じつに不思議な湖なのだ。

 しかし、時間を特定するためには深さ70メートルもの地層に刻まれた、1本1ミリの7万本の縞を数えなければならない。気が遠くなるようなその作業は二十数年間、日英独の科学者たちによって引き継がれながら続いた。本書は2012年にその成果を発表した本人による研究の記録である。

 大村智さんと梶田隆章さんのノーベル賞ダブル受賞で、日本中の科学少年が興奮したはずだ。本書は、研究するとはどういうことなのかを学べる最良のテキストだ。

 また、著者が率いた研究チームは縞を数え上げるまで一本の論文も出さなかった。結果的に若い研究者が生涯にわたって誇れる大論文を出すことができた。

会員限定記事会員サービス詳細