日本の源流を訪ねて

巌流島(下関市) 地名に残った敗者・小次郎

近くを大型船舶が行き交う巌流島。名前の割にこぢんまりとしている
近くを大型船舶が行き交う巌流島。名前の割にこぢんまりとしている

 山口県下関市彦島沖に巌流島(船島)がある。周囲約1・6キロ、東京ドームの2個ほどの広さの小島は、巌流島の決闘抜きでは語れない。

 慶長17(1612)年4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で対峙(たいじ)した。遅れてきた武蔵に、小次郎が刀のさやを投げ捨てて挑む。武蔵の「小次郎、敗れたり」の一言で勝負は決まる。ここまでは大半の人が知っている話である。

 海抜が、最高地点でもわずか10メートルのほとんど何もない平坦(へいたん)な島だ。唯一、武蔵と小次郎が決闘する像が目を引く。ちなみに、小次郎像は平成14年、武蔵像は翌年に別々の芸術家によって建立されたのだが、対決する姿が不思議としっくりしている。

 像を見ていると、不勉強のせいもあって、「なぜ、2人はここで対決することになったのか」と疑問がわいてきた。

 細川家の家老で門司城代、沼田延元が書いた「沼田家記」が、その事情に触れている。二刀流の武蔵と巌流兵法の小次郎は、豊前細川領の小倉で、ともに剣術指南役をしていた。ある年、双方の弟子が「兵法の優劣」を主張し始め、巌流島で決闘することになったという。やりたくもない勝負を、弟子にあおられてやったということなのだろうかと想像をめぐらす。

 沼田家記には、剣豪・武蔵にしては少々情けない記述もある。「一対一」の約束を反故(ほご)にし、武蔵はひそかに弟子を島内にしのばせていたというのだ。島で息絶えたとされる小次郎だが、流儀「巌流」にちなみ巌流島と呼ばれるようになった。勝負には負けたが、歴史に名を残したのは小次郎だった。

 巌流島は戦時中、日本軍の軍事要衝となり、写真を撮影することも許されなかった。下関市などによると、決闘の時代から島の面積は埋め立てで6倍に広がり、かつては人が住んでいたこともあるという。現在は私有地が3分の2、残りは市有地。実際の居住者はタヌキだけの無人島で、夕方の最終定期船に乗り遅れると、渡船をチャーターするか、朝まで船を待たなければならない。

 散策道を回っていると、魚かごに餌のサバをしばって海に沈める人がいた。翌日まで仕掛けておくという。「カニを狙っているんだけど、たまにアナゴもかかるんだよ」。眼前の関門海峡を行き交う大型船を眺めていると、決闘には似つかわない、たおやかな時間が流れていた。(菊池昭光)

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 島には武蔵、小次郎の銅像のほか、バーベキュー施設もある。直行便は下関市の唐戸桟橋と、北九州市の門司港から、それぞれ片道約10分。大人1人分の運賃(往復)は、下関からが500円、門司港からは800円。問い合わせは関門汽船(電)083・222・1488。