正論

見過ごせぬ大学改革の副作用…「手術は成功したが患者は死んだ」となりはせぬか? 竹内洋(関大東京センター長)

 かくていまや大学教員は特権的高等遊民どころではなく超多忙職のひとつとなった。なかでも仕事量に占める割合で増大しているのが大学改革がらみの校務である。世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは日本の大学教員をおいて他にないだろう。

 ≪改革のパフォーマンス競争≫

 にもかかわらず、次々に新しい改革案が大学に押し寄せる。大学改革が錦の御旗になってから文科省官僚をふくめての大学行政関係者にとっては、どれだけの大きな改革案を出すかのパフォーマンス競争のようになった気配すらある。教育改革の成果は時間がかかり検証しにくいから、思いつきの改革案が簡単にでることにもよるだろう。

 そもそもこれまでおこなわれてきた大きな大学改革は問題含みのものが少なくない。

 7割合格というふれこみで登場した法科大学院は、ふたを開けると、2、3割の合格率にすぎなかった。看板に誘われて入学した学生たちこそ犠牲者である。いまその手直しがなされているが、誰も責任を問われていない。新国立競技場問題となんらかわらない。1990年代からはじまった大学院重点化政策もそうである。従来の何倍もの院生が出ることになったが、受け皿を勘案していない大学院拡充策だったから大量の博士難民がでた。いまだに解決されていない。

 調子づいてきた大学改革行政は、今年の6月には国立大学の人文社会科学系と教員養成系の改組、縮小、廃止についての文科大臣名の通知となってあらわれた。縮小や廃止をちらつかせながら改組を促すのは、その昔、お取り潰しや減封をもとに大名や旗本を戦々恐々とさせたのとそっくりの強権的手法である。大学などどうとでもなるとふんでの臆面なき大学改革にいたったのである。

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