石野伸子の読み直し浪花女

青春の開高健(6)新聞もとに副業執筆、1年後に芥川賞…早業29歳の「闇」

開高健の代表作となった『日本三文オペラ』
開高健の代表作となった『日本三文オペラ』

 昭和32(1957)年2月8日。開高健は新聞に載った記事に目をとめた。科学面に掲載された動物学者の寄稿文。「木曽谷ネズミ騒動記」というものだ。

 ことしは120年ぶりにササの実が大量になる。これは地上に落ち、野ネズミの大量繁殖につながるだろう。そしてネズミは木の皮や根を食い尽くして人間社会をパニックに陥れるが、本当のパニックはその後にやってくる。膨大な数となったネズミたちは食糧難に陥り、集団移動を始めやがて湖にたどりついても疾走をやめず、次々と溺れ死ぬのだ。

 これは面白い。小説になる。開高は直感した。

 開高は昭和29年にサントリーに入社し、翌年には東京に転勤となっているが、そうした最中もポツポツと習作を書いては文芸雑誌に発表していた。しかし、評判になることもなく本人も満足していなかった。コピーライターの仕事が忙しくなるにつれ、筆もとまった。

 しかし、文学の虫は身中にいた。26歳、作家魂に火がつく。仕事の合間を見つけては会社近くにある日本橋・丸善に通い資料や文献をあさった。2カ月後、執筆にかかる。書く喜びを自伝的小説「夜と陽炎(かげろう)」に書いている。

 「毎夜、時計職人のように猫背になって単語を組み合わせたり、ほぐしたりに没頭した。部屋の隅っこに机を持ちこみ、安物のカーテンをつるして妻や娘から姿をかくし、未明近くまで呻吟(しんぎん)した。発光するほどの充実が体内のすみずみまでみなぎり、やっと自分にふさわしい仕事に出会えたような至福感があった」

 小説家になりたいというより、書きたいことを書ける生活に満足していたとも述懐している。しかし、やはり世に出るべき時期が来ていたのだ。

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