歴史のささやき

「炊く」か「蒸す」か、それが問題だ

登呂遺跡(静岡県)で行った炊飯実験。弥生人も米を「炊いて」いたのだろう
登呂遺跡(静岡県)で行った炊飯実験。弥生人も米を「炊いて」いたのだろう

 □西南学院大名誉教授・高倉洋彰氏

 現在、ご飯は電子炊飯器で炊くが、私が子供のころは竈(かまど)に鉄釜を置いて炊いていた。竈の前に座って火吹き竹で空気を送り込んで火をおこし、たき木を継ぎ足すのは子供の仕事だった。この光景は漢代の画像資料にも見られる伝統的な方法だ。

 ご飯には、米を直接水にひたす「炊く」方法と、水蒸気を利用する「蒸す」方法がある。炊く方法は軟らかくできるから姫飯(ひめめし)、蒸す方法は硬めにできるから強飯(こわめし)という。強飯の言葉は、赤飯などの「おこわ」に残っていて、結婚式などの祝いの席で食べられる。

 古代日本人は、どちらでご飯を食べたのだろうか。私の学生時代は、「稲作が伝わったころから蒸す方法で食べた」と考えられていた。甑(こしき)とよぶ甕(かめ)の底に穴を開けた土器が見つかったからだった。甑には米をいれ、水を張った甕に重ねる。甕の周りで火をたくと、蒸気が甑の底の穴から吹き上がって、米を蒸す。つまり甑は蒸籠(せいろう)の役割を果たすと考えた。

 しかし、発掘調査が進んでも、甑の出土数は少なかった。一方、「おこげ」が着き、吹きこぼれがスス状になった甕の事例が増えてきた。「蒸す」よりも「炊く」方が主流だったことを示す物的証拠といえる。

 考古学者の間壁葭子さんの実験によると、蒸す方法は、できあがりまで100分かかるが、炊く方法なら30分ですむ。しかも炊く方法では五目飯や雑炊など米の量が調整できる。弥生人は今と同じように、炊いたご飯を食べたのであろう。

 弥生人が米を「炊く」には、一つ課題がある。米と水をいれた甕を、安定させなければならない。

 福岡市宝台遺跡の調査で、分厚く作られた土器を3個置いた遺構が検出された。この土器はそれまで、甕などの器を安定させる置き台(器台)と考えられていたが、等間隔に3つ置く方法と、支座とよばれる良く似た土器が中国にあることから、器台ではなく支脚とわかった。長崎・壱岐の原ノ辻遺跡などには口縁部をくちばし状に引き出した安定感のある支脚があるが、これは形態的にも支座である。

 弥生時代には、炊いたご飯を食べていたと考えるのが自然だし、通説となった。

 ところが不思議なことに、弥生に続く古墳時代は、蒸したご飯を食べたと今でも考えられる傾向にある。理由はよくわからないが、竈・甕・甑をセットにした土器や、そのミニチュア土器がかなり出土していることも大きな要因と思う。

 有名な山上憶良(やまのうえのおくら)の『貧窮問答歌』は、憶良が国守として筑前国に在任中、租税徴集の過酷さを詠んだものだが、「竈には、火気ふき立てず、甑には、蜘蛛(くも)の巣懸けきて、飯炊くことも忘れて」という部分がある。

 これを読めば、甑で飯を蒸して食べるが、忘れるほどの長きにわたって蒸すこともないということになりそうだ。しかし、この解釈は違うだろう。

 食事ができなければ、農民は飢え死にするしかないのだ。生産者である農民を飢え死にさせては、政治はできない。

 私が小学生になる前、戦後の食糧難に窮した経験があるが、サツマイモばかりの芋飯や芋粥(いもがゆ)、わずかに米の見える雑炊で飢えをしのいだものだった。これは、蒸す方法ではできない。

 現代の赤飯に残るように、米を蒸す調理は祝祭の日用で、日常の生活では雑炊や芋粥などが可能な炊く方法だったに違いない。

 貧窮問答歌の光景は、ごちそうを食べるような祝い事もないと言っているのだ。

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【プロフィル】高倉洋彰

 昭和18年福岡県生まれ。49年に九州大大学院終了後、福岡県教育委員会、県立九州歴史資料館を経て、平成2年から西南学院大教授。弥生時代の遺跡や大宰府のほか、アジアの考古学など幅広く研究。「弥生時代社会の研究」、「行動する考古学」など著書多数。九州国立博物館の誘致にも尽力した。26年3月に西南学院大を退職し、現在名誉教授。同年5月に日本考古学協会会長に就任した。観世音寺(福岡県太宰府市)住職も務める。

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