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昭和35(1960)年6月に入ると、社会党や全学連に扇動された群衆は連日のように国会と首相官邸を幾重にも囲み、革命前夜の様相を帯びた。安保条約の自然承認は6月19日午前0時。それまでに国会や首相官邸に群衆が雪崩れ込み、赤旗を掲げるのだけは防がねばならない。
当時の警察官数は警視庁で約2万5千人(現在約4万3千人)、全国で約12万7千人(現在約25万8千人)しかおらず、装備も貧弱だった。警視総監の小倉謙は「国会内への進入を防ぐ『内張り』だけで手いっぱいです」と音を上げた。
通産相の池田勇人(第58~60代首相)と蔵相の佐藤栄作(第61~63代首相)はしきりに自衛隊出動を唱えた。自民党幹事長の川島正次郎も防衛庁長官の赤城宗徳を訪ね、「何とか自衛隊を使うことはできないか」と直談判した。
困った赤城は長官室に防衛庁幹部を集め、治安出動の可否を問うと、旧内務省出身の事務次官、今井久が厳しい口調でこう言った。