家族 第5部 記憶色あせても(2)

手帳に増えるカタカナ「逆に回る時計、どう受け止めたら」

 ある日、裕子が帰宅すると、頼んでいた牛乳がなかった。誉一郎は「買えなかった」という。キャッシュカードの4桁の暗証番号が思い出せず、現金を引き出せなかったようだ。裕子は不意に、その頃は地方の大学に通っていた2人の娘のことを思い出した。

 幼少期にお使いで牛乳を買ってこられたときは、その成長に胸を打たれた。後に文字を覚え、通帳を作り、免許も取った。間もなく仕事も見つけるだろう。一方で夫は仕事を失い、文字も忘れ、今度はキャッシュカードも取り上げなければならない。

 「夫の時計だけが、逆に進み始めている。元に戻すことはできないのかもしれない」。誉一郎が手帳に記していた「怖い病気」の意味が、裕子も徐々に分かり始めてきた。

■自責振り払い

 誉一郎は万年筆を手にすることもなくなり、人との関わりを避けるようになった。通院先や知人と会った際、気遣いされることを嫌った。呼応するように、できないことが格段に増えた。携帯電話やクーラーのリモコン操作、コーヒーの入れ方…。誉一郎のいらだちは、裕子に向けられた。

 「死にたい」「最低だ」と叫んでは、頭を壁に打ち付け、リモコンや家具を投げつけた。出勤前に慌ただしく準備をする裕子に「忙しぶってるなら、早く出て行け」と怒鳴り、また暴れた。帰省した娘にも怒声を浴びせ、ひとしきり暴れると、暴れたことも忘れた。