家族 第5部 記憶色あせても(1)

携帯なくし、勤務先で迷子…夫の異変から10年「大切な存在と思い続ける」

【家族 第5部 記憶色あせても(1)】携帯なくし、勤務先で迷子…夫の異変から10年「大切な存在と思い続ける」
【家族 第5部 記憶色あせても(1)】携帯なくし、勤務先で迷子…夫の異変から10年「大切な存在と思い続ける」
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 木々に囲まれた用水路をコイやカルガモが泳ぐ。川崎市の閑静な住宅街。脇の小道は渋谷誉一郎(57)と裕子(57)夫婦がお気に入りの散歩コースだ。この日は、今年から社会人となった次女の茜(25)も一緒。1人暮らしの茜が、誉一郎と会うのは1カ月ぶりだった。

 「髪切ったんだ。はやりのツーブロック、似合うね」「コイが寄ってきた。おなか減ってるのかな」。裕子と茜が誉一郎に話しかけながら、代わる代わる腕を取り、歩く。穏やかな休日の昼下がりだ。

 「ただいま戻りました」。引き戸を開けると、誉一郎より一回り以上も年配のお年寄りが会釈する。玄関先で裕子が誉一郎の靴を脱がせた。以前なら「かっこ悪い」と絶対に履かなかったマジックテープの靴は、裕子が選んだ。靴下も脱ごうとする誉一郎を止め、再び腕を取って3階の自室へ。簡易なベッドとカーテンに囲まれたトイレがある20平方メートル足らずの部屋が、誉一郎の住まいだ。

 「私が誰か分かる?」。不意に茜が話しかけると、誉一郎は少し間を置き、ばつが悪そうに「いや、ちょっと…」と答えた。裕子は誉一郎に同じ質問をしたことがない。聞くのが少し、怖いのかもしれない。

 ●針なし時計

 誉一郎と裕子が知り合ったのは大学時代。ともに中国文学や中国史に明るかったのが縁で、27歳で結婚した。裕子は、頑固で保守的だが優しい人柄にもひかれた。長女の幸子(27)と茜を授かり、ともに別々の大学で教職に就いた。順風な生活だった。

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