ヘリコプターの操縦士として30年間にわたって無事故飛行を続け、その飛行時間は7500時間を超えた。中でも、対戦車ヘリAH-1S単独で6千時間を超える無事故飛行は、陸上自衛隊で数人しかいない偉業だ。
「次に何をしないといけないか、先へ先へと考える。ミスがないようにするため、どうするか考え続けていた」
かつて目の前で起きた飛行事故を見て、「常に危機管理の意識を持つようになった」という。
「こうした思いは、月日がたつと忘れがちだが、安全ベルトをしっかりと締めること、冬は何があるか分からないので防寒具を必ず所持することを守った」。卓越した操縦技量は当然のこと。誰よりも安全意識を強く持ち、隊員たちにも言い続けた。
自分が教える側になったた際は「飛んでいるときは怒鳴るが、降りてからは怒らず、いかにシンプルに教えるか」を心掛けた。「私ほどうるさい人間はいなかっただろう」。それもすべて、後輩飛行士たちの技術向上と安全のためだった。
昭和52年の陸上自衛隊入隊以降、一番印象に残っているのは、22歳のときの初めての単独飛行。東日本大震災の際は、誰よりも現地に行きたかったが、運航係の幹部として帯広駐屯地に残らなければならなかったのも思い出だ。
親子2代の自衛官だったが、自身も8月に退官。第2の人生に向けて、離陸を始めた。