オリンピズム

64年東京のいまを歩く(22)モチーフは日本でありたい 美術史上に残る大会エンブレム

【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(22)モチーフは日本でありたい 美術史上に残る大会エンブレム
【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(22)モチーフは日本でありたい 美術史上に残る大会エンブレム
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2020年大会エンブレムの制作発表から白紙撤回まで、亀倉雄策の名が常に見え隠れした。五輪史いや美術史上に残る傑作、1964年大会シンボルマークの制作者は1915年生まれ。今年生誕100年にあたる。

「亀倉さんは男らしさと繊細さを併せ持った、ちょうど天覧試合でサヨナラホームランした長嶋(茂雄)のような存在だった」

14歳年下の永井一正は記念シンポジウムの基調講演で『ミスタープロ野球』を引いて評した。64年大会をデザインする6人の指名メンバーの1人であり、後輩としてライバルとして、亀倉を深く知る人である。

オリンピックと亀倉との出合いは58年に遡(さかのぼ)る。翌年の国際オリンピック委員会(IOC)ミュンヘン総会で東京招致に用いる英文パンフレットの装丁依頼だった。亀倉は、革表紙に金文字を箔(はく)押しして手渡した。

依頼者は日本オリンピック委員会(JOC)常任委員の元皇族、竹田恒徳、後にJOC委員長、IOC委員となる。『スポーツの宮』として知られ、現JOC会長、竹田恒和の父君でもある。

竹田はこの表紙を大層気に入り、東京大会のデザイン顧問になれという。やんわり断った亀倉は逆にシンボルマーク作成を提案した。

五輪エンブレムは24年パリ大会に始まる。亀倉にはこれまでに類のない、東京大会を象徴するデザインを生み出す自信があった。

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