小山評定の群像(71)

「塩谷孝信」 宇都宮氏を見切って那須氏寄りへ 激動期の生き残り模索

寺山観音寺の角型四つ足香炉(同寺蔵)=栃木県矢板市
寺山観音寺の角型四つ足香炉(同寺蔵)=栃木県矢板市

 栃木県矢板市長井の寺山観音寺にある角型四つ足香炉は同市指定文化財。青銅製で縦14・5センチ、横11センチ、高さ13・5センチ、重さ2・1キロ。足に刻まれた文字から水戸藩付家老(つけがろう)、中山信治と妻が1679(延宝7)年に寄進したと分かる。寺は塩谷氏とゆかりが深い。塩谷孝信の娘を母に持つ信治が、断絶した塩谷氏を弔った。

 塩谷氏は戦国時代末期に滅びるが、宇都宮氏や那須氏の興亡に関わり、時に重要な役割を果たした。塩谷氏はもともと宇都宮一門の重鎮。孝信の父、孝綱は宇都宮正綱の四男で、川崎城(矢板市川崎反町)を拠点にした川崎系塩谷氏を継ぐ。孝信は大蔵ケ崎城(さくら市喜連川)の喜連川系塩谷氏に養子に入った。

 地元では兄殺しの汚名が残る。1564(永禄7)年、孝信は実家を攻めて兄、義孝を殺害。川崎城を占拠した。那須与一伝承館学芸員の前川辰徳さんは「北条氏と対抗する宇都宮氏を見切り、那須側に付くため2系統の塩谷氏を統一した」とみている。宇都宮氏は結城氏、佐竹氏と連携し、北条氏に対抗したが、孝信はその姿勢に不安を感じていたのではないか。さくら市ミュージアム荒井寛方記念館副館長の小竹弘則さんは「ライバル関係の宇都宮氏と那須氏のはざまに塩谷氏の領地があった」と指摘。微妙な立場の中、生き残りへの方策を探っていた。

 1585(天正13)年の薄葉ケ原の戦いでは宇都宮氏と那須氏が総力戦で激突、孝信も奮闘した。中央では豊臣秀吉が関白となる頃で、関東を制圧した北条氏も1590(天正18)年に滅亡。時代は大きく変わろうとしていたが、孝信は、その結末を見ることなく生涯を終えた。

 ■塩谷孝信(しおのや・たかのぶ) ?~1586年。父は塩谷孝綱。喜連川系塩谷氏を継ぎ、妻は那須家重臣、大関氏から迎えた。川崎系塩谷氏を継いでいた兄、義孝を殺害し塩谷氏統一を図る。子に惟久。