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戦後、母と映画館通い
〈「映画の字幕翻訳」の第一人者。映画と深く関わる生き方の原点は子供時代にあった〉
平成23年に97歳で亡くなった母は気が強く妥協しない人でした。そのDNAは伝わっているわね。父は私が1歳の時、日中戦争下の上海で戦死しました。父の死後、母は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)に入って教員資格を取り、高校の家政科の教師になったんです。ですから私は鍵っ子でした。家には祖母がいましたが、遊び相手にならない。近所に友達がいなかったので本を読むしかなかったんです。『巌窟王』とか『二都物語』など世界の文学作品を読みあさっていました。ほかにも叔父たちの雑多な本をたくさん読みましたね。
昭和20年3月10日の東京大空襲後、四国で1年間の疎開生活を送り、終戦後、東京に戻ってきました。母が映画好きということもあり、小学校5年のころから映画館でよく洋画をみるようになったんです。あのひどい戦争を体験し、娯楽が何もない中で日本国民全員が映画ファンだったのよ。今じゃ考えられないでしょ。映画館は満員電車のよう。新宿の映画館の周りは闇市で、新聞紙に包まれたピーナツをご飯代わりに買ってもらって映画を見ながら食べるの。ほんの一握りのピーナツでした。