小山評定の群像(69)

喜連川国朝 足利家を再興、姉・嶋子伝説の謎

さくら市ミュージアム荒井寛方記念館で常設展示されている「豊臣秀吉朱印状」(複製)
さくら市ミュージアム荒井寛方記念館で常設展示されている「豊臣秀吉朱印状」(複製)

 源氏の名門、足利氏が興した室町幕府は1573(元亀4)年に足利義昭が京から追放され、滅んだ。江戸時代、将軍家直系は断絶し、連枝の系統もせいぜい藩士にすぎない。唯一、鎌倉公方・足利氏の末裔(まつえい)、喜連川氏が大名として存続した。

 喜連川藩(さくら市)は5千石。1万石未満で大名という唯一の例外で、その祖が喜連川国朝である。

 鎌倉公方はいわば幕府の出先機関だが、次第に将軍家に反目。複雑な経緯をたどり、鎌倉を追われ、下総・古河(茨城県古河市)を拠点とする古河公方と下総・小弓(おゆみ)(千葉市)の小弓公方に分かれた。北条氏が関東で勢力を増すと、両家は衰退。北条氏討伐後、豊臣秀吉が両家を強引にくっつけた。小弓公方家の国朝と最後の古河公方の娘、氏姫を婚姻させ、喜連川に所領を与えた。

 この一件のキーパーソンは国朝の姉、嶋子(月桂院)だ。秀吉の側室となり、実家再興を願い出たと伝わる。だが、那須与一伝承館学芸員の前川辰徳さんは「嶋子の思い描いた形ではなかった」とみる。嶋子の願いは小田原征伐に出遅れ、失脚した夫、塩谷惟久(これひさ)の復権だったはず。結果は縁続きとはいえ、対立していた古河公方家と実家の統一。しかも喜連川は没収された婚家の領地だった。さくら市ミュージアム荒井寛方記念館副館長の小竹弘則さんも「秀吉は足利氏の権威を政治利用し、両公方家の対立も一気に解決した。(側室に)泣きつかれて仕方なく決めたわけではない」と指摘する。

 国朝は文禄の役で肥前・名護屋城に向かう途中、広島で客死した。同館は、国朝の死を悼む秀吉の書状など「喜連川文書」を保管している。

 ■喜連川国朝(きつれがわ・くにとも) 1572~93年。足利頼純(よりずみ)の長男。祖父は小弓公方を興した足利義明。死後は弟、頼氏が継ぎ、喜連川藩・初代藩主となる。