北関東の戦争遺跡

旧中島飛行機地下工場(群馬県太田市)

 ■特攻機製造拠点 未完のまま終戦

 太田市。北関東随一の工業都市であるこの街には、飛躍的な発展を遂げた富士重工業がある。同社の前身は、終戦まで高い技術力を備え、日本の航空機やエンジンメーカーとして東洋最大、そして世界有数の航空機メーカーの中島飛行機製作所だった。元海軍機関将校の中島知久平が大正6年12月に飛行機報国を念じて創設した。

 創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

 なかでも、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」は、陸軍を代表する戦闘機の主力機として使用された。だが、数々の偉業を成し遂げた中島飛行機は、米軍の戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、B29による爆撃で太田工場は徹底的に破壊された。

 米軍の空襲を避けるため建設を進めた旧中島飛行機太田地下工場は、広大な太田市八王子山公園墓地(西長岡町)の奥にある樹木に覆われた人目に付きにくい丘陵地に残る。戦局が悪化し、本土決戦に備えて昭和20年1月に建設を開始。特攻機の製造を目指したが建設途中に終戦となったという。

 地下工場の建設作業に携わったのは1500人とされ、10時間交代の突貫工事だったといわれている。計画では1トン爆弾に耐え、工場の規模は約2ヘクタール、操業開始は20年11月としていた。

 「旧中島飛行機太田地下工場を保存する会」の代表で、戦争遺物に詳しい石塚久則さん(68)は、「戦後、米国の調査団が入ったときには、工場につながる地下道は崩壊していた」という。

 太田市史によると、「終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われたが、調査に訪れた20年11月13日には、既にすべての入り口が崩れ落ちていたため、工場の地下道の調査は不可能であった。幅13フィート、高さ11フィートの地下道30本は完全に掘り抜かれ、木材の支柱が立てられていた。工場内には工作機械は設備されず、運び込まれてさえもいなかった。たった1本のかろうじて小型四輪駆動車が通行できるような非常に狭い道を通って、工場跡地までたどり着いた」としている。

 石塚さんは、「地下道の入り口は土が柔らかく、崩落の危険性があり中には入れない。ただ昔、村の子供が入り込み迷子になったという話は聞いている。未完成だったが、とても広かったのではないか」と話す。

 地下道は今、金属の円筒で補強され、入り口前には「立ち入り禁止」の看板と柵が設置されているだけである。(前橋支局 平田浩一)

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