戦後70年

死のうと思い死ねなかった元特攻隊員 生き残ったことに負い目を感じ生活〈三重発2〉

【戦後70年】死のうと思い死ねなかった元特攻隊員 生き残ったことに負い目を感じ生活〈三重発2〉
【戦後70年】死のうと思い死ねなかった元特攻隊員 生き残ったことに負い目を感じ生活〈三重発2〉
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 特攻隊のパイロットとして、死と隣り合わせに生きた三重県四日市市泊山崎町の村山了さん(93)。70年の歳月を経て、いまなお鮮明に残るその記憶をたどった。

 昭和18年4月、東京・拓殖大学の学生だった村山さんは、学徒出陣で埼玉県の熊谷陸軍飛行学校に入校。「どうせ死ぬのなら華々しく早めに」と、最も死亡率の高い航空隊を志願した。同年10月、台湾沖海戦で日本陸海軍が壊滅的打撃を受け、搭乗する飛行機を失って内地に戻った。その後、飛行訓練専門の教官として若い隊員の出撃訓練に当たった。

 20年1月、特攻隊員として出撃が予定されていた村山さんは、日帰りで四日市市内の実家の母を訪ね、仏壇のリンドウの下に遺書を隠した。予定が変わり出撃しなかったが、遺書を見つけた母が2日かけて茨城県の常陸飛行師団に面会にやってきた。「お前の遺書を見てなあ」と語る母。その夜は水戸市の旅館で親子水入らずの時間を過ごしたという。

 その直後、村山さんの弟が戦死。兄弟そろって戦死するのは酷という上層部の判断で、村山さんの出撃は見送られた。同7月、新しい戦闘機「隼」の納入の話を聞き、出撃参加を血書嘆願したが、「隼」の納入が遅れ、8月15日を迎えた。

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