郷土偉人伝

荒井退造 激戦地の沖縄で県民疎開に尽力した警察部長 戦後70年に故郷・宇都宮の誇りに

 塚田さんの寄稿と、宇都宮市内で6月に開かれた塚田さんの講演、塚田さんへの取材をもとに、沖縄での功績をみていく。

 昭和18年7月、福井県官房長から沖縄県警察部長に就任した。現在の県警本部長に当たる重責だ。日に日に悪化する戦況。沖縄が戦場になる恐れも出てきた。19年6月の閣議で沖縄県民10万人の疎開が決定する。その必要性を感じていた荒井も積極的に取り組もうとするが、当時の知事らは消極的で、県内有力者は楽観論に寄っていた。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。沖縄に米軍が上陸すれば、多くの住民が犠牲になると案じていた。

県外疎開に尽力

 荒井は、まず第1弾として、県職員と警察官の家族700人を疎開させて機運をつくり、第2次、第3次として2600人、続いて8月10人に9000人、さらに9月末までに3500人と疎開させた。

 この間、長崎に向かう学童疎開船「対馬丸」が潜水艦によって撃沈され、1485人が犠牲になった。海上輸送への不安は強く、当初、疎開はなかなか進まなかった。一方、10月10日には那覇市を中心に沖縄本島への空襲があり、荒井は警察官を指揮して、大混乱の中、住民の避難誘導にあたった。空襲は疎開の必要性を浸透させるきっかけになり、20年3月までに7万3000人を県外に疎開させた。

 この間、19年12月24日、知事が突然上京してそのまま戻らず、約1カ月知事が不在となった。県幹部も出張や病気療養で県外に出たままとなり、県上層部は混迷を極める。そんな中、知事に任命されたのが島田だった。20年1月末、潜水艦に乗って決死の覚悟を持って赴任してきた。

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