熊谷空襲 戦後70年の証言

なぜ終戦直前に…虚脱と怒り 埼玉

 機銃掃射から逃げ延びた長野順一さん(79)=熊谷市万平町=は、気がつくと見知らぬ農家の家の縁側に座っていた。なぜそこにいたのか分からないという。疲れ切った9歳の少年に、農家は米の握り飯をごちそうした。頬張ると、不意に涙があふれた。

 「あの頃、お米だけの握り飯を食べられるなんて夢のようでした。もう少し私が大きければ、きちんとお礼も言えたでしょうに」

 自宅に戻ると、家族も家も無事だったが、疲労と安堵(あんど)感からか、みな放心状態だった。間もなくして、ラジオから玉音放送が流れてきた。

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 昭和20年8月15日。前夜からの空襲の火は、午後5時ごろにようやく消えた。死者は266人。市街地の3分の2が焼け、市役所や警察署、裁判所など主要な建物のほか家屋3630戸が焼失した。

 「15日の太陽はジリジリと照りつけ、肌を焦がすような暑さでした」。妊娠5カ月だった藤間豊子さん(91)=同市桜町=は、家が残っていた母親の妹のところへ身を寄せた。焼け野原となった町は、どれが誰の家の跡なのかも分からない程だった。

 この日の午前、自宅の防空壕(ごう)に軍刀を取りに帰った夫が、壕内で父親の源一郎さん=当時(50)=が倒れているのを見つけた。左肩から胸に焼夷(しょうい)弾が貫通し、息絶えていた。胸ポケットに入れていた手拭いが血で染まっていた。

 停電で玉音放送を聞くことはできなかった。父親の見舞いに訪れた人から敗戦を伝えられ、「もう怖い思いをしなくても済む」と思うとともに「なぜもう少し早く終わらなかったのか」と、父親を亡くした悔しさがこみ上げた。

 桑畑に逃げた山崎晃さん(83)=同市玉井=は、先に逃した祖母と弟の無事をひたすら祈った。夜中の雨でぬれた服を、明け方にまだ燃えていた染物屋に近づいて乾かした。昼過ぎに避難所となっていた小学校で2人と再会。自宅は焼け落ち、2階にあった本箱の図書が炭火のようにくすぶり赤々と光っていた。

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 熊谷が空襲された理由をめぐっては、今年2月、国立国会図書館のサイトで公開されている米軍の機密文書「米国戦略爆撃調査団文書」に、熊谷空襲に関する資料があることを市史の調査を行う江南文化財センターの山下祐樹さん(32)が発見した。「標的情報報告」とされる文書には「熊谷は中島飛行機会社の集積ネットワークの主要地区である、都市内の多くの小さな店が(同会社の)部品工場に寄与している」と記されており、軍需工場の関連施設の攻撃が熊谷を標的にした理由だった可能性が高くなった。

 藤間さんは91歳になった今も、積極的に講演などで空襲の記憶を伝え続けている。熊谷で空襲があったこと、それがポツダム宣言受諾後の終戦間際だったことを知らない世代が増えてきたという。

 「父は空襲前、『明日戦争が終わる』と母に伝えていました。残念でむなしい」と語る藤間さんは、こう続けた。

 「戦争は二度とあってはいけない。でも自分だけの希望ではどうにもできません。子供やお孫さんに、この空襲の悲しさを伝えてほしい。こんな悲しみは、もう誰にもさせたくありません」(川峯千尋が担当しました)

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