戦後70年〜昭和20年夏(6)

なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」

 ラーゲリでの生活は格段に向上した。部屋は一般抑留者と分けられ、1日置きの入浴が許された。食事には副菜がつき、朝食には牛乳、夕食にはウオツカがつき、たばこも週1箱もらえた。秋元はいつも仲間たちに分け与えた。

 ラーゲリ全員に帰還命令が出たのは24年5月初旬。かつて1千人ほどいた抑留者は400人余りに減っていた。秋元ら通訳の十数人は「アクチブの教育が不足している」としてハバロフスクで20日間の再教育を受けた後、帰国した。

 夢にまで見た帰国だったが、現実は厳しかった。「アカ(共産主義者)」のレッテルを貼られていたのだ。

 秋元は京都・舞鶴港で警察に連行され、独房に40日間入れられ、アクチブの活動内容などについて取り調べを受けた。ようやく郷里の栃木県に戻っても、自宅裏のクワ畑には警察官がいつも立っていた。

 「しまった。ソ連に利用されてしまった…」

 秋元は通訳になったことを後悔したが、誤解は解けなかった。出征前に勤務した小学校を訪ねると校長に「職員室に席は置いてやるが、子供の前には出ないでほしい」と言われ、結局、教壇に立てぬまま退職、実家の農業を継いだ。

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