戦後70年〜昭和20年夏(5)

抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ…

 「この通りの家はすべて日本人が建てたと両親から聞きました。古くはなったが、造りが大変しっかりしており、改修なしで住み続けています」

 地元郷土史家のマリーナ・クジミナは「当時を知っている人は、いかに日本人が仕事熱心だったかを知っている。悪く言う人などいない」と説明した。

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 45年8月9日午前0時(日本時間)、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍80個師団157万人が満州や朝鮮、千島列島などに一斉侵攻した。日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。

 ソ連軍は、満州や朝鮮などから約57万5千人をシベリアやモンゴルなどに連行し、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いた。飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした。

 だが、シベリア抑留はロシアでほとんど認知されておらず、抑留者は「軍事捕虜」と称される。この大雑把な認識はロシア人自身が、対独戦とスターリン時代の弾圧で膨大な犠牲者を出したことに根ざす。

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