戦後70年

戦友が見た「戦車兵・司馬遼太郎」 苦難の中でも冗談や笑み「軍人らしくなかった」

 戦時下とはいえ、自由な学生生活を謳歌(おうか)していた初年兵が、軍隊に慣れるのは容易でなかった。とりわけ司馬さんには訓練中の動作に遅れが目立ち、「軍人として物足りない。特に銃剣で人を刺す訓練は嫌いだったようで、いつも嫌そうな顔をしていた」という。

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 初年兵教育を終え、2人とも初級将校を目指す甲種幹部候補生試験に合格。翌19年春に戦車部隊の指揮官教育を受けるため、旧満州の四平陸軍戦車学校に入校した。直後に日本軍はサイパン島で米軍に大敗を喫し、東条英機内閣が退陣。予断を許さない戦況となり、戦車の操縦や射撃、分解や組み立てなどの訓練は日々厳しさを増した。

 緊張感に包まれた生活の中、司馬さんは「俺は将来、戦車1個小隊をもらって蒙古の馬賊の大将になるつもりだ」と冗談を飛ばした。苦難の中でも笑みを絶やさない姿は、戦友の間で癒やしになっていた。

 「福田の操縦技術は同期生の中でも、とびきり下手だった」と明かす佐藤さん。車体を傷つけ教官の怒りを買うこともあったが、8カ月間の教育が終了した19年12月には「何とか機甲将校らしく、様になってきた」という。

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 その後、2人は別々の部隊に配属されたものの、お互い実戦を経験することなく内地で終戦を迎えた。交流はいったん途絶えたが、35年に小説「梟(ふくろう)の城」で司馬さんが直木賞を受賞し、戦車学校の同期生による祝賀会で再会。