関西の議論

「八咫烏」が日本サッカーのシンボルになった理由 和歌山出身の高等師範学生が普及に注いだ情熱

水泳が得意な苦学生

 明治11年生まれの覚之助は、32年に和歌山県師範学校を卒業。地元で教師として勤務するが、翌33年には東京高等師範学校に進学する。

 学費などは兄がオーストラリアに出稼ぎに行き賄ったという。当時の和歌山・紀南地方では、オーストラリアや米国、カナダなどへ出稼ぎに行くことは珍しくなかった。

 覚之助の兄の孫にあたる中村統太郎さん(72)は「(覚之助は)非常に勉強ができたようでした。スポーツに関しては海に近い土地の生まれだからか、水泳が得意だったようです。高師の遠泳大会でもらった賞状が残っています」と話す。また覚之助は博物学を専攻しており、カエルの脚とみられる筋肉の緻密なスケッチも残っているという。

日本サッカーの始まり

 日本でサッカーを競技として初めて紹介したのは、覚之助の師にあたる東京高師教授の坪井玄道(1852~1922)だった。

 坪井は、高師の校長で柔道の講道館を創設した嘉納治五郎の命で外国に視察に行き、明治35年にスポーツに関する幾つかの書物を持ち帰った。このうちサッカーに関する書物を翻訳したのが在学中の覚之助で、36年に「アッソシエーションフットボール」という名で出版された。

 当時の日本は日露戦争前夜。「富国強兵」を進める中で、教育としても西洋のスポーツを採り入れようとしていた。中でもサッカーは体の鍛錬やチームスポーツの一体性といった面で注目され、他校から問い合わせも多かったため、翻訳本の出版が決まったという。