戦後70年 千葉の出来事

成田闘争(上) さながら白昼の市街戦

富里案が頓挫

 成田・三里塚に新空港建設案が浮上したのは41年だった。それまで政府が掲げていた、富里村(現富里市)での建設案が住民の反対で頓挫し、代わりの建設地として名前が挙がった。

 地元の反対派の農民は富里案だった時代も含め、当初は合法的な運動を展開していた。反対派の農民を応援していた社会党(現社民党)の元県議で後に成田市長となる小川国彦氏(82)は「富里案のころ、富里から県庁(千葉市)まで耕運機でのろのろ運転するデモをやったが、ちゃんと許可をとった。あくまで平和的な話し合いで解決を図ろうとしていた」と振り返る。

 反対派には社会、共産両党が協力的だった。だが、42年から過激派が運動に加わったことで大きな転換点を迎える。過激派が加わった理由について、公安調査庁は平成5年4月にまとめた「成田闘争の概要」でこう分析している。

 「地元住民は反対運動を党勢拡大に利用しようとして対立を深める両党に不信感を強め、反対闘争を支援する団体を党派を問わず受け入れる態度をとり、過激派集団が乗り込んで来ることになった」