戦後70年

鳴門海峡「住吉丸の悲劇」で散った予科練の若者たち…生還者ら誓う「命ある限り伝える」

82人が犠牲になった「住吉丸」で九死に一生を得た大島正純さん。法要で「この話を後世に伝えたい」と決意を語った=2日、兵庫県南あわじ市
82人が犠牲になった「住吉丸」で九死に一生を得た大島正純さん。法要で「この話を後世に伝えたい」と決意を語った=2日、兵庫県南あわじ市

 第二次世界大戦終結直前の昭和20年8月2日、海軍予科練生を乗せた船舶「住吉丸」が、鳴門海峡で米軍機の機銃掃射に遭い、82人が死亡する惨事があった。76人は全国から集まった10代の若者だった。悲劇から70年にあたる2日、多くの死傷者が運び込まれた春日寺(兵庫県南あわじ市阿那賀)で法要が営まれ、生還者や遺族らが「この話を後世に伝えなくては」と誓った。

武装のない木造船

 「敵襲ーッ!!」

 若者たちで立錐(りっすい)の余地もないほどの甲板下。すぐ上から大声が聞こえた。その声を合図にしたように、米軍艦載機の爆音とバリバリッという機銃の音が響いた。船体前部に板を渡した甲板はあっという間に壊され、上にいた戦友や上官たちが変わり果てた姿で降ってきた。淡路島まであと少し、という鳴門海峡でのことだ。

 米軍の侵攻を想定し、淡路島南西部に砲台を作るため、「宝塚海軍航空隊・甲種飛行予科練生」ら111人が住吉丸で徳島・撫養から淡路島の阿那賀(現南あわじ市)へ向かったのは昭和20年8月2日早朝だった。

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