産経抄

見事なトリック 7月30日

 元治(げんじ)元(1864)年7月、長州藩は、京都での主導権を奪回するために御所を攻めた。いわゆる禁門の変である。しかし、薩摩藩や会津藩に撃退され、長州藩は存亡の機に立たされる。

 ▼すると、藩主の了承のもとで行われていたにもかかわらず、責任を取ったのは3人の家老だった。切腹し、藩を救った。歴史家の山本博文さんによると、江戸時代、「武士の切腹は、藩主を頂点とする藩社会を守るために行われた」。

 ▼ただ、「現在の日本でも、そのような構造は、官僚組織や会社組織などに根強く残っているのではないか」ともいう(『切腹』光文社新書)。確かに、文部科学省の久保公人(きみと)スポーツ・青少年局長(58)の辞職は、詰め腹を切らされたと、世間では受け止められている。

 ▼建設計画が白紙に戻された新国立競技場の問題で、野党は、下村博文文科相の責任を追及している。下村氏を頂点とする、文科省という「藩」を守るためには、担当局長だった久保氏の切腹しかないというわけだ。ただ、下村氏は会見で、「定例の人事」と述べている。

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