さらば愛しき人よ

「扇橋の落語を聞きながら死にたい」 永六輔氏にそう言わせた落語家、入船亭扇橋さん

入船亭扇橋さん 
入船亭扇橋さん 

 扇橋さんは1931年、東京都青梅市に生まれた。俳句と浪曲を愛好する少年だった。特に俳句の世界では、水原秋桜子に「末恐ろしい少年」と言われる存在だった。

 家の貧しさもあって高校を1年で中退、職を転々とした。その間も俳句は詠み続け、新聞の俳句欄や句誌に投稿してたびたび入選を果たす。そのころすでに「光石」という俳号を持っていた。

 24歳のときに好きな浪曲で生きていこうと決意、広沢虎三の門をたたくが門前払いをくい、ツテを頼って木村隆衛に入門、2年間九州を巡業して歩いた。

 九州から東京に戻り、新宿末広亭で落語を聞いたのが転機となった。三笑亭可楽の「笠碁」にはまってしまったのだ。ツテを頼って桂三木助の内弟子となった。26歳という遅いスタートだった。作家、山本昌代の『三世桂三木助』には、三木助の女房を慕う若き日の扇橋さんの姿が描かれている。

 この頃、師匠の三木助は胃がんに侵されていて、61年1月16日に永眠してしまう。死に水を取ったのは、弟子の扇橋さん(当時は桂木久八)と林家木久扇(同桂木久男)だった。このとき扇橋さんはこんな句を詠んでいる。

 《蝶ひとつ天の蒼(あお)さに吸はれけり》

 扇橋さんは三木助の盟友であった5代目柳家小さんの元に預けられ、木久扇は8代目林家正蔵の門下となった。

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