「これは原爆だ」。昭和20年8月6日、米軍が投下した1個の新型爆弾で壊滅した広島市。その一報を受けて現地入りし、新型爆弾の正体を原爆だと突き止めたのは、皮肉にも旧日本軍から委託を受けて原爆の研究を進めていた日本の科学者たちだった。戦後70年を前に、京都帝大(現在の京都大)の荒勝文策博士(1890~1973年)らが残した調査資料や研究ノートが新たに見つかり、歴史のワンシーンが改めて浮かび上がった。そこに記されていたのは、戦争に引き込まれながらも科学者として懸命に使命を果たそうとする姿とともに、国家の命運をかけた原爆開発競争というもう一つの「戦争裏面史」だった。
見つかった研究ノート
日本では第二次世界大戦中、旧陸軍が理化学研究所の仁科芳雄研究室に、旧海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託した。
「ニ号研究」の符丁で呼ばれた仁科博士らの研究では、熱拡散法によるウラン濃縮に着手。荒勝博士らの研究はfission(核分裂)の頭文字をとって「F研究」と名づけられ、遠心分離法によるウラン濃縮を目指した。
しかし、物資の不足などのため双方の研究とも終戦までに成功しなかったとされる。
戦後70年を前に、京都大では、荒勝研究室に所属していた科学者が残した研究ノートが新たに見つかり、原爆開発で最も重要とされたウラン濃縮についての記述も確認された。遠心分離装置の回転数を計算した数値や必要な資材の寸法、参考にした海外論文が記され、実際に研究を進めていた様子が分かる。
終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は理研や京都帝大などを捜索し、物理学の基礎研究に使われる円形加速器「サイクロトロン」を破壊。「原爆の開発につながる」との理由だった。この時、日本の原子核物理学の基礎を築いた荒勝博士の研究資料も、ほとんど持ち去られたという。