戦後70年 語り継ぐ

静岡大空襲(上)焼夷弾の雨、安倍川火の川

 25日に行われる安倍川花火大会。毎年約1万5千発の花火が打ち上がり、60万人もの見物客が訪れる静岡の夏の風物詩だ。だが、この花火大会がそもそもは、先の大戦末期に静岡大空襲で亡くなった人々の慰霊のために始まったということを、どれだけの人が知っているだろうか。

 ◆遺体を河原で火葬

 「空襲だ、逃げろ!」。昭和20年6月20日未明、旧静岡市の井宮町に住んでいた当時8歳の高岡純子(すみこ)さん(78)は、父の鋭い声で家を飛び出した。空襲警報が解除された直後の出来事だった。

 B29の編隊は、照明弾で市内を明るく照らした後、超低空飛行で無数の焼夷(しょうい)弾を投下した。「ズドーン」「ギャー」。交錯する焼夷弾の爆発音と子供の泣き叫ぶ声。次々と吹き上がる火柱が街全体を覆い、阿鼻叫喚の焦熱地獄は2時間にも及んだ。

 「まるで火の雨が降っているようだった。目の前で何人も焼夷弾の直撃を受けて焼け死んで、この世のものとは思えない光景だった」と高岡さんは振り返る。

 当時、静岡市には戦闘機のプロペラなどを製造する軍需工場が多く点在し、東京、名古屋、大阪の大都市を破壊した米軍は、こうした地方都市を標的に大規模な空襲を展開していた。

 空襲が終わり、母と再会した高岡さんが家に戻ると、父は防火用水の中で絶命していた。「下半身は水につかり、上半身は魚みたいに丸焦げだった。焼夷弾を振り払おうとしたのか、木の棒を胸の前で握りしめていた」と、今でも父の姿が目に焼き付いている。

 父の遺体は、大八車に乗せて安倍川の河原で火葬。それまで気丈に振る舞っていた母は、このとき初めて声を上げて泣いた。その横で高岡さんは静かに手を合わせた。「不思議と涙は出なかった。悲惨さを通り越して何も感じることができなかった」

 ◆「復興できるのか」

 空襲から一夜明けた静岡の街は酸鼻を極めた。

 「市街地は跡形もなくなり、駿河湾まで見渡すことができた。炭化した遺体の群れが至る所にあり、人間が燃えた臭いは強烈だった」。当時15歳だった小川孝太郎さん(85)=静岡市葵区駒形通=は、空襲直後の市内の様子をこう語る。

 「静岡市史」などによれば、コンクリート造りの県庁や市役所などの建物はわずかに残ったが、それ以外はほとんど焼失。被災世帯は2万5千戸にのぼり、約2千人の市民が犠牲になった。死者の大半は、焼夷弾がもたらす高熱や火炎によって焼き殺された。

 こうした焼死体の多くは安倍川に集められ、河原は臨時の火葬場になった。

 「真っ黒な遺体がトラックで次々と運び込まれ、青い制服を着た刑務所の囚人たちが鉄橋の下に並べていた。川沿いには遺体を火葬する人々の姿があり、白い煙がいつまでも立ちのぼっていた」。小川さんはそう振り返る。

 空襲の夜、多くの市民が水を求めて安倍川に逃げ込んだ。だが、焼夷弾はここにも降り注ぎ、安倍川はたちまち火の川になって人々を襲った。多くが命を落とした安倍川は、市民にとって空襲の惨禍を記憶する象徴的な場所となった。

 安倍川の土手から市街地を見ると、肉親や知人の行方を探す人たちが廃虚の中をあてもなく歩き回っていた。「静岡は復興できるのだろうか」。小川さんは、先の見えない不安が募り、しばらく呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。(広池慶一、村嶋和樹)

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【用語解説】静岡大空襲

 昭和20年6月20日未明に米爆撃機B29により静岡市街地が受けた空襲。午前0時50分ごろ、123機の米爆撃機B29が伊豆方面から静岡市上空に飛来し、約2時間にわたって焼夷弾787トンを投下、市街地の大部分が焼失した。この空襲による死者は約2千人、焼失戸数は約2万5千戸にのぼったとされるが、正確な数字は分かっていない。

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